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専門家の予測はサルにも劣る
ダン・ガードナー /飛鳥新社 (2012-05-23) / 1,728円62 users
未読: 
◆書評から
・本書の本質は、彼らが必ず予測を間違えてしまう心理学的なメカニズムの分析を行いつつも、「カオス理論」などから未来予測の難しさを説明しつつ、その「予言者」たちの対応の間違った後の態度の取り方、そしてそれに対してわれわれがどのように対処すればいいのかまで、かなり深く、しかし軽快な筆運びで論じております。
・本書の白眉は、おそらく心理学者のフィリップ・テトロックの専門家たちの数々の未来予測を長期にわたって追跡した調査結果を引用しているところであり、また興味深いのは、80年代末から90年代にかけてアメリカで吹き荒れた「日本脅威論」などをネタに、いかに専門家たちがことごとく間違ってきたのかを論じているところでしょう。
・また、いくら間違ったことを言っても「断言している」という理由から信じられてしまう謎を進化心理学の面から説明していることや、聴衆を説得するにはデータではなく「自信を持っているように見えることのほうが重要」という指摘は、意外ですがなかなか説得力のあるもの。
(12/06/16)
鱈―世界を変えた魚の歴史
マーク カーランスキー /飛鳥新社 (1999-03) / - 15 users
読了:  2010年01月22日
◆さいたま市図書館、10/01/21
最初に注目したのは『歴史を変えた気候大変動』(参照)、次いでブローデルの指摘「早くも15世紀末期からニューファンドランド沖の棚にいるタラの大規模漁獲が行われたが、これは革命的な出来事であった」(参照)但し、下線部の意味がいま一つ掴みきれない。
・バスク人が抑圧と度重なる戦乱にもめげず、かくまで強固に独立を保ち得たのは歴史を通じて経済的安定を維持していたからである。バスク人は農牧民であると同時に、かつては海上交易に目覚ましい活躍を見せた船乗りでもあったのだ。中世のヨーロッパ人は鯨肉を大量に消費した。バスク人はどことも知れぬ遠い海に出かけて鯨を捕ってきた.彼らは無尽蔵のタラの魚群を発見し、獲物を塩漬けにして蓄えた。このもちの良い栄養豊富な食糧があったればこそ、バスク人は長途の捕鯨航海に耐えることができたのである。27.p
・西暦千年までにバスク人はタラの市場を大きく広げ、タラの棲息海域をはるかに超える、文字通りの国際貿易を実現した。28.p
・1480年に入って、ブリストルの商人とハンザ同盟の間に対立が深まった。(当初は絶対君主の圧制に抗し、海賊を退治し、水路を開削し、灯台を築いた。やがて貿易の独占を守るため理不尽な振る舞いにでた。)バルト海のニシン貿易を独占していたハンザ同盟は、15世紀に入って干しダラの権益をも一手に握ろうとした。その頃すでに干しダラはブリストルの主要な産物だった。1475年、ハンザ同盟はブリストルの商人がアイスランドからタラを買うことを禁じた。32.p
・タラは暖流と寒流が触れ合うところに集まる底生生物を捕食する。メキシコ湾流がラブラドル海流をかすめる北米大陸沖、そして、同じ二つの海流が再び出会うイギリス諸島、スカンディナビア、ロシアの沖合に餌を求めてタラは群れる。...タラは常に暖流と寒流の境界を伝わって回遊するから、タラ漁場の移動を監視すれば気象の変化が読めるとする学説もある。寒流の水温が下がればタラは南へ移動し、温度が上がれば北へ寄る。49.p
・ニューファンドランドのタラは16世紀の貿易史上に変化をもたらし、各地の港湾開発を促した。アイスランドのタラの利権をめぐるイギリスとハンザ同盟の対立は次第に深刻の度を増していたが、ニューファンドランドの漁場が新たに開発されると、イギリスの西海岸には相次いで大きな漁港が出現した。イギリスは、もはやアイスランドを必要としなくなった。60.p
・18世紀を迎えて、タラは入植者が餓えに苦しむ辺境の植民地だったニューイングランドを国際貿易市場の主力に押し上げた。マサチューセッツでは、タラは商品である以上に信仰の対象だった。17世紀にタラ漁業で繁栄の基礎を固めた「タラ貴族」たちはみな、富の象徴として公然とタラを崇めた。公式の封印や紋章などにもタラがよく使われ、プリマス土地会社の社印や、1776年に制定されたニューハンプシャー州の紋章などはその代表例である。84.p
・17世紀の砂糖生産は労働集約型の農産業で、経営戦略の要は奴隷を使役して人件費を低く抑えることだった。収穫機の砂糖農園は多くの奴隷が一日16時間以上の重労働を強いられる一大工場である。...ニューイングランドの植民地はここに安価な栄養源である塩ダラの将来性を見出した。...粗悪品を貪欲に受け入れる低価格市場が生産者にとって抗し難い吸引力を備えているのは、商業上の自然法則といえば云える。...1645年に一艘のニューイングランド商船がカナリア諸島に向かい、更にガボベルデに下って積み込んだアフリカ人奴隷をバルバドスで売り、ワイン、砂糖、塩、タバコを積んでボストンに戻った。その後、西アフリカに塩ダラの市場が開拓されて、まもなく、タラと奴隷と糖蜜は通商上、切っても切れない関係で結ばれることになった。/ニューイングランドの社会はあくまでも個人の自由を重んじ、あまつさえ、公然と奴隷制度を非難する一方で、カリブの砂糖農園主らに安い食糧を大量に売り込み、奴隷に一日16時間の労働を強いて自分たちは着々と富を蓄えたのである。18世紀初頭、多いときには年間三百艘を超す船がタラを積んでボストンから西インド諸島に向かった。...ニューイングランドの大口の得意先はフランスの植民地、サン・ドミニク(ハイチ)、マルティニク、グワドループ、オランダの植民地、スリナム(オランダ領ギアナ)だった。いずれも大規模な砂糖農園を経済基盤とする植民地で、特にフランスは巨利を得ていた。1680年以降、フランスは毎年平均千人のアフリカ人奴隷をマルティニクに呼び寄せた。18世紀には毎年八千人がサン・ドミニクに運ばれた。85-89.p
・アメリカ革命は史上初の反植民地運動である.政治的自由を求める運動には違いないが、革命の先頭にたったニューイングランドの強硬論者たちにとって、その自由とは自分たちの判断で運営する権利を意味するものであった。程度の差はあれ、革命はすべて経済闘争である。マサチューセッツの急進派が目指したのも社会革命ではなく、経済革命だった。...革命急進派にしてみれば、糖蜜やタラや、茶は単に本国との間に不和を生む頭痛の種などという生易しいものではない。これらの商品こそ革命の動機そのものだったのである。99-100.p
・中世から現代にいたるまで、地中海世界はタラの需要が最も多い市場である。19世紀に地中海各国の人口は飛躍的に増大した。スペインの人口は倍になり、ポルトガルの人口増加率はそれを上回って、ビルバオをはじめ、ポルト、リスボン、ジェノア、ナポリなどの港がそれぞれに大都市圏を形成した。..その大半がタラを好む消費者だった。106.p

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