ホーム   本・雑誌   Web   洋書   音楽 ウォッチ  プロフィール  メディア記録  印刷  RSSフィード
並べ替え:
カテゴリ 読書 購入 所有 お気に入り 1 - 14件目 / 14件
レオナルド・ダ・ヴィンチ
セルジュ・ブランリ /平凡社 (1996-03) / 6,525円2 users
所有 読了:  2012年06月17日
・Ch.4を読む(12/06/16)。膨大なメモ類、時に前後脈絡なく、思いつくままに、あっちに飛んだり、中断したり、頭に去来する想念を、そのまま写しとったかの如き。ブランリによれば「物事を偶然に託して、脳裏に浮かんだ如くに、配列や明白な論理もなしに書いている」175
・Ch.5、200.p《隠者聖ヒエロニムス》の来歴
・Ch.6、「ペンと小刀」、レオナルドは1482年ミラノに移住する(30歳)。「レオナルドの時代には、ミラノはヨーロッパで最大、人口最多(10万)、最強の首都の一つとなる」233;「レオナルドは、自分を理解できなかったフィレンツェに対するおそらく反作用から、ミラノでほっと一息つく。彼は生まれ変わったような思いがする。あまりにも居心地が良いので、17,8年の間、事態の成り行きからやむを得ず出てゆくまで、この街に留まることになる」235;
・ミラノの強力な支配者に宛てた士官申出の長い書状(書状の全文、225)。戦争に関わる様々な提案、武器、要塞プラン等で占められている(「現実の奉仕の申し出というより、自分自身で決めるプログラムを読んでいるという印象のほうが強い」227;モンタネッリは、この自薦状がイル・モーロに提出されたとの前提で「あまり謙譲の美徳は感じさせない。ルドヴィーコはこの手紙が気に入って、レオナルドをミラノに招き、ショーや宴会の演出、女性の帯のデザイン公妃用浴室の設計を任せ、のちには肖像画も描かせた」と書いている。【ルネサンスの歴史】下巻、266。ミラノに向かったのが「招かれた」のか、別の動機だったのかは、決定的に重要というわけではないが、かなり違った印象を受けるのは事実。)
1481~99年、ロドヴィーゴ・イル・モーロ、ミラノ公となる。当時のミラノについて、ブルクハルト【イタリア・ルネサンスの文化】の第一章「芸術作品としての国家」で「ジャンガレアッツォ以来、すでに完全に出来上がった絶対君主政体によって統治されていたミラノの諸公の場合は、その統治は、15世紀の意味において真にイタリア的なものとして現れる」云々(100~105.p参照)
・先の「ミラノの強力な支配者」は明らかにイル・モーロのことだ。ブルクハルトは「レオナルドが進んで留まったのでないとしたら、この宮廷のいったい何がレオナルドをひきつけていたのだろいうか。世間はこの人に対しておそらく、およそ当時のどんな人間に対してよりも、門戸を開いていた。そしてイル・モーロの中に、幾らかでも高尚な要素が生きていたことを証明するものがあるとすれば、それは、彼の身辺にこの不可解な巨匠がこんなに長く滞在したということである」105、と書いている。
・イル・モーロは、1499年10月、ルイ十二世によってミラノを奪われる。いったんはミラノを回復するが傭兵の裏切りで捕らえられ、フランスで獄死する。レオナルドは、この時期にミラノを立ち去る。

・Ch.7、「1490年、平和のおかげで、イタリア全土はかつてなかったほどの繁栄を謳歌する。半島のあらゆる国家が、ある種の政治的安定を見る。ミラノはペストの恐怖と惨状から立ち直ったので、....人々は富を蓄え、それで楽しむことしかもはや考えない。(イル・モーロ支配下のミラノの概要;モンタネッリ【ルネサンスの歴史】下巻第28章「イル・モーロとシャルル八世」を参照)
超薬アスピリン―スーパードラッグへの道 (平凡社新書)
平沢 正夫 /平凡社 (2001-09) / 799円13 users
所有 読了:  2012年03月24日
・僕は目薬・傷薬以外の薬は、殆ど使ったことがないけれど、09年3月からバイアスピリン100mgだけは抗血栓薬として服用している。医者から服用を勧められた際に、服用するかどうか色々調べた結果、低容量の服用では(特定の場合を除き)ほとんど副作用が無いこと、抗血栓作用のみならず、ガン予防やアルツハイマー病・歯周病への効果など、新たな効用の可能性も認められるなどの知見があり、対費用効果として最大値に近いということもあって(三ヶ月で700~800円、年間3000円内外)常用している。というわけで、以来、何かとアスピリンには関心を持っている。ちなみにバイアスピリンは、バイエル社のアスピリンの商品名だ。
・本書は01/9月に初版発行、00年9月まで日本ではアスピリンは「抗血小板薬」として認定されなかったそうだ。著者は、この認定について「あまりにも遅すぎた」「諸外国並みに、十数年前に承認していたら、心筋梗塞や脳卒中の患者が少なくとも数十万人は救命されていたと思われる」と書いている。
陳 舜臣 /平凡社 (1980-11) / 1,728円4 users
所有 読了:  2012年03月24日
・再読、史記と併せ読む。
夏王朝について、Wikiには「夏(か、紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)は、中国最古と伝承される王朝」とある。
・夏王朝は、実在も非実在も証明されてないけれど、実在したとすれば時期的には「竜山文化が夏王朝の時代に当たる」云々(92)。竜山文化はWikiによると「龍山文化(りゅうざんぶんか、龙山文化、拼音: Lóngshān wénhuà : ロンシャン・ウェンフア, 紀元前3000年頃-紀元前2000年頃)は、中国北部(華北)の黄河中流から下流にかけて広がる新石器時代後期の文化である。黒陶が発達したことから黒陶文化ともいう」
中世イタリア商人の世界―ルネサンス前夜の年代記 (平凡社ライブラリー)
清水 広一郎 /平凡社 (1993-06) / 1,404円19 users
所有 読了:  2012年03月06日
・【マキャヴェリ全集】第三巻フィレンツェ史の訳者解説の中で、マキャヴェリが「フィレンツェ史」第二巻の執筆に際してジョヴァンニ・ヴィッツラーニの【年代記】を典拠にしたと言及している。ヴィッツラーニは、銀行家あるいは両替商を主要業務として人物で、広くヨーロッパを歩きまわり、フィレンツェ共和国の総代に三度も就任するなど、当時の最も経験豊かな市民の一人であった」云々と紹介されている。本書は、そのヴィッツラーニの【年代記】を中心に据えた中世の商人及び商業世界の研究書。

******************************
・イタリア内部は、都市国家に区々に分裂し、他都市の市民と激しく争っていた。しかし、いったん「外国」に出れば、彼らは「ロンバルディア人」として一括して扱われることが多かった。22.p[ロンバルディア;イタリア北西部、現在もロンバルディア州があり、州都はミラノ、地図及び歴史は参照
・中世商人には「企業家精神」に立脚した合理性が完全に欠如していたとするゾンバルトの主張に耳を傾ける者は、実際に当時の文書に接した者の中には一人もいない。25.p
・商人の子弟は6歳頃から読み書きを習い始め、4~5年間の勉強をする。その後二年ほど算術の学校に通ってから、12~14歳で実業の道に入るのが普通だったらしい。尤も、算術学校まで通えた者の数は極めて限られていた。37.p
・クレトーの闘い(参照)、1302年;ブリュージュ市民とフランス軍との戦い、ベルギーの歴史家ピレンヌと仏人歴史家ブレンターノとの解釈との対立、52~63p
・13世紀後半、遍歴商人から定住商人への移行期、旅の様子、78~86p
・14世紀は中世最大の不況期、先進商業都市で、商人の破産が相次いだ。91.p(百年戦争、黒死病による人口の急減。1315~から凶作、飢饉、疫病、労働人口の減少による生産力低下が相次ぎ、1340年代にはこれらが一挙に深刻化した。145.p)
・14世紀初頭、アヴィニョン、教皇座の存在都市、金融業の中心地、93p
・結婚契約書、118.p(下女を兼ねた現地妻を迎える場合の契約形式)
・中世都市は、自由なる民衆に立脚した共同体であると意識され、その運営は市民が分担して行うものとされていた。127.p
・1339年以降、天変地異が相次ぐ、都市国家は危機に見舞われる、それまでは覆い隠されていた内部矛盾が噴出する。市民は「都市国家の権力を一人の手に集中することによって、この事態を乗り切ろうとした」、アテネ公を推戴し、結果、今まで後と権力を失い、やがて彼に反抗して蜂起する。152~164.p
・「法」に対するゲルマン地域とラテン地域の感覚mentalityの(対照的な)相違、188.p
・記録への執念;記録、契約書、公証人、リコルダンツェorリコルディ、186~206.p
陳 舜臣 /平凡社 (1981-12) / 1,728円3 users
購入:   2円 所有
読中: 
・太平天国戦争の長沙攻防戦のエピソード(俯瞰することの意味)、3
・南北を統一した隋もその後継者の唐も、北方系の王朝で、皇室も鮮卑系の可能性があったけれど、漢王朝の看板を掲げた。彼らは漢族部隊の府兵を背景にして覇業を成し遂げたので、その手に入れたものを維持するためにも、府兵の絶対的な支持を必要とした。更に北には南の文化に対する強い憧れがあり、南北を統一したあと、新領土の南をしっかりと掌握するためにも、漢族正統政権であることを強くうち出す必要があったのではないか。11
陳 舜臣 /平凡社 (1981-09) / 1,728円3 users
購入:   0円 所有
読了:  2009年10月26日
・前漢平帝元始二年(西暦2年)の人口5959万人余(「漢書」・地理志)、王莽末期の戦乱の結果人口は激減、後漢光武帝の死んだ建武中元二年(西暦57年)に2100万人余、質帝の死んだ本初元年(146年)に4756万人に回復、百数十年後の三国時代には再び8百万そこそこに、22
・後漢が滅んだのが220年、分裂はそれ以前、董卓が洛陽を破壊して、長安遷都を強行したとき(190年)、またはその前の黄巾の乱(184年)から分裂は始まっていた。それから約四百年、隋の文帝が南北を統一する589年まで「分裂の時代」が続く。前漢・後漢を併せて約四百年の統一時代があり、ほぼ同じ期間、分裂の時代が続く。50
・(分裂の要因)人口の激減、北方の民族の大移動(匈奴)、52(松田寿男「アジアの歴史」では、第5章「中国の北と南」で「分裂」の背景を、次のように指摘している。「漢帝国の末期から中国は分裂の傾向が強まる。そして結局は南北朝の対峙を生む。ところが、このような中国の政治的二分は、単なる政権の対立だけではなく、華北と華南とのそれぞれに異質な風土の上に展開された、異質な社会・文化の発達であった」50、更に次の指摘も注目。「中国が政治的に分裂する場合には、必ず秦嶺=淮河線が基本とされた。中国に見られる北・南の差は、ただ地理的だけでなく、歴史的でもあった」53))
・中国の古代の史書には人種的特徴の記述が皆無、53
シベリア南部、エニセイ川上流のアバカン市付近から中国風のオンドルをもつ漢代の宮殿跡が発掘される(1940年)、匈奴の領域、青銅製把手の遺物、68
・四世紀から五世紀にかけて、様々な顔をした民族が中国の歴史に登場する。それは、やがて水平線上に姿を見せる、中国の世界帝国のための前奏曲であったといえる。69
・三国時代、江南が開発され、そこは水のたっぷりある土地だという噂は、中原にも伝わった。中原の農民にとって、南方は幻の楽土だった。江南目指して、流民が移動した。中原の農業は灌漑に頼る部分が多く、灌漑水路はたえず手入れをしなければならない。人で不足でそれが出来なくなると、耕地はそれだけで減少する。86、89
・(匈奴の)劉渕が皇帝を称して(大漢皇帝、308年)から約130年間、華北には塞外民族の政権が次々と登場する。この時代は「五胡十六国」、最近では「東晋十六国」といわれる。
・(中国の史書では)五胡は、匈奴、羯、鮮卑、氐、羌とされている。羯は匈奴の一支族、氐と羌はチベット系、鮮卑は「後漢書」には東胡の支族で、鮮卑山に拠ったので、そう呼ばれたととあるが、諸説ある。92
・三国以来、江南の地には六つの王朝(呉、東晋、宋、斎、梁、陳)が興亡した。孫権が帝を称した229年から陳が滅亡した589年までの360年間を「六朝時代」と呼ぶ。139
・南方の王朝の簒奪は、軍閥が登場し、それが王朝の力をしのぐというパターンの繰り返し、162
東晋・前秦・前燕鼎立時代図(350-370年頃)、169(&「世界史地図」15頁、「東アジア諸民族の活躍」を参照)
淝水の戦い(383年)、173(「世界史地図」15頁も参照)(この戦いで、前秦は富士川の合戦の平維盛の大敗に匹敵する敗北を喫する)
・前秦の内部にも反対は多かったが、敢えてそれを押し切って苻堅が東晋遠征に踏み切った背景には、彼の理想主義があったのではないか。遠征軍の編成にも諸族連合という彼の理想が反映されていた。177
・前秦の名臣王蒙(漢族)は、淝水の戦いの戦いの八年前に死んでいるが、苻堅に、次のように遺言した。175
東晋は江南に僻処すと雖も、然も正朔相承け、上下安和す。臣歿するの後、願わくば晋を以って図りと為る勿れ。
鮮卑、西羌は我の仇敵にして、終には人の患いと為らん。宜しく漸く之を除き、以って社稷に便せよ。

・亀玆、おそらく当時の住民は人種的にはインドやイランよりもギリシャ、ラテン系に近かったと推測される。九世紀半ばに、シルクロードに民族大移動があり、トルコ系のウィグル族が主流を占めるようになるが、それ以前はアーリア系の民族が多かった。187
平凡社 (1956) / - 1 users
○チュルゴー、またはテュルゴー(本書第6巻には、後者で記載、Turgot)
12世紀まで遡るノルマンディー貴族、父親はパリ市長で、三男。21歳でサン・シュルピス神学院に入り、翌年ソルボンヌ神学院に転じて僧院長になる。しかし形成期の啓蒙思想に触れ、世界史に関する二つの講演を行った(23歳、内容は不明)。
・24歳で16歳から続けてきた神学研究を放棄、ヴォルテール的寛容論から宗教に疑いを抱く。1752年、パリ高等法院検事総長代理に任命され、審理部評議員を経て高等法院請願委員になる(1753-61)(宗教に対する疑念と啓蒙思想への共感が公然の秘密だとすれば、チュルゴーの自由主義的改革を、絶対主義の単なる延命策とは見なすべきではないかも知れない。世界歴史事典3-326.p「啓蒙専制主義」も参照のこと
・1761-1774、リモージュ財務区のアタンダンとなり、重農主義的自由主義の立場から税制改革、救貧院創立、穀物自由取引などを実施。
・1774年7月海相に任命され、同8月には財政総監に任命される。財政整理のために「破産なく、増税なく、募債なし」をモットーにした。
・「六法令」は、賦役を廃止し地租を課すること、穀物税廃止、ギルド廃止等を内容にするもので、高等法院の反対を受けたため、非常手段として親臨開廷によって法令を登録させた(1776/03/10)。
・コミュノーテ改革法案は、地方行政末端の身分制的構成を廃止する意図であったため、高等法院の徹底した反対を受け、1776/05辞職した。(以上から分かること、生まれから自然の王党派に組するが、知性と教養によって心からの自由主義的立場、高等法院の頑固主義に阻まれ自由主義的改革は頓挫するが、彼の自由主義的改革が実施されれば、フランス革命の道筋は全く別の様相を描いた可能性がある
アイザック・ニュートン〈1〉
リチャード・S. ウェストフォール /平凡社 (1993-12) / 9,123円3 users
ニュートンの知性、レーダーマンは伝記作者ウェストフォールの言葉を紹介している。
(自分は、あらゆる機会に優秀な人々と自分の能力を比較して、その人の能力の二分の一とか、四分の一とか、ともかくも有限の分数で表すことが出来た。ところがニュートンに限って)The end result of my study of Newton has served to convince me that with him there is no measure.He has become for me wholly other,one of the thiny handful of supreme geniuses who have shaped the categories of the human intellect.(God Particle,87.p)/ウェストフォールの、このニュートン賛辞を見るだけでも、ぜひ一読してみたくなる。
平凡社世界歴史事典編集部 /平凡社 (1951) / - 1 users
所有 読中:  お気に入り
「ミシェル」第二部で引用した機会に登録。最初、全25巻で昭和26年から出版され、その後何度か改版が出される。また昭和31年から学生版として全10巻が出版される(文字を小さくした縮刷版)。高校時代に学校の図書館で愛用したもので、これに勝る「世界歴史事典」は、少なくとも日本では現在でも出版されていない。僅かに比較しうるのは京大西洋史辞典編纂会「新編西洋史辞典」だけだが(僕には高校の修学旅行に行かず、その費用でこの辞典と「日本史辞典」二冊を買った覚えがある)、世界史的視野を外して「西洋史」を語りうるのかどうかは疑問だ(英米で、これに比較しうる歴史事典が編纂されているのかどうかは、生憎と知らない。少なくともOXFORDではPaper Book 程度しか出版していない)。
現在、僕が持っているのは昭和31年から出版された学生版全10巻(昭和42年第四刷)で、古書で数千円で購入したものだ。

プロフィール
<< 2017年3月 >>
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
読書状況
ウィッシュ21 冊
積読4 冊
読中78 冊
読了294 冊
読了数 (月別)
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 1
  • 2
  • 3
アマゾン検索
タグ (7)
10 歴史
3 科学
2 辞典類
1 伝記・評伝
1 医学
1 経済
1 社会
ソーシャル
物々交換
アイデア
カウンター
累計2103  今日0  昨日0
since : 2009/05/22

©2007-2017 sunjin_fuuraiのバインダー