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史書を読む (中公文庫)
坂本 太郎 /中央公論社 (1987-03) / 461円8 users
所有 読了:  2012年06月12日
・最初に公にされたのは1981年1月号『歴史と人物』、二年間にわたって連載された。その後、中央公論社から単行本として出版。
僕が、初めて読んだのは1987年4月に再刊された中公文庫版だ。たまたま本棚の一隅にあるのが眼について拾い読みする。
・「あとがき」に、こんなことが書いてある。「史書を読むことは楽しい。....学問上の難しい議論を述べるつもりはないし、まして警鐘を乱打して、太平の世の眠りを覚まそうというような、大それた気持ちは微塵もない。史学者の端くれにいながら、随分呑気なことを言うものだと叱られるかもしれないが、人間も80歳に達すると、こうした恬淡とした心境に成る」。初めて、この書に接した22歳の頃、この「あとがき」をどう読んだか覚えていないが、当時の僕は経済学と幕末の政治外交史に専ら関心を注いでいたから、歴史書を読むのは文字通りに「余興の楽しみ」だったかも知れない。
・ともあれ、現在は70歳には未だ数年たりない年齢でしかないが「恬淡とした心境」が素直に共感できる。昔は諦観と思っていた、しかし現在は諦観も超えたと思っている。何事も淡々と受け流す心境。
・日本書紀、風土記、古語拾遺、将門記、吾妻鏡、読史余論などの章を読む(6/12)
神々の体系―深層文化の試掘 (1972年) (中公新書)
上山 春平 /中央公論社 (1972) / - 4 users
所有 読了:  2012年06月11日
・歯医者の待ち時間に読む。40年ぶり、第三章「記紀のイデオロギー」読了、津田学説の簡単な紹介;歴史そのものではなく「天皇家」の支配を正当化する目的を持ったイデオロギー(要するに「お話」だ)」との見解に対して、基本的に同じ立場。但し「天皇家」の代わりに「藤原家」を置く点が独特。
律令国家体制は天皇家から藤原家への実権の移行の転機(87)⇒藤原氏への実権の移行の「転機」をどの時点に置くか、特定の政治的事件に置くかどうかは別として、実権の移行は、疑いもない事実だ。但し実質的な「天皇家」の支配は、常に一時的で、基本的には「権威の源泉」として利用されてきたのが実情ではないか。古代にも中世にも「専制国家」では「神」は権威の源泉として利用されてきたが、「権力」の主体を「神」そのものとみなしたかどうか、この点はやや微妙。その意味では日本の「現人神」との表現は言い得て妙というべきか。なお「現人神」の用例については【国史大辞典】に日本書紀の景行天皇40年の条に日本武尊の言として「吾是現人神之子也」云々とあるのを指摘(1-339)。【日本国語大辞典】には「荒人神」の表現もあり、この場合、「随時、姿を表して霊威を示す神。または霊験の著しい神の意味として万葉6-1020、1021の用例を指摘。
・第一章は古事記の神統譜;血のつながり又は精神的つながりによって高天原系統と根の国系統の二系統を想定する。⇒問題はこの二系統が、何らかの史的事実との相関または反映関係があるのかどうか、というより相関関係があるとみなしてどんな史的イメージを物語るか?
・第四章、「もともと天皇家のための歴史として出発したものを、藤原家のための歴史に作り変えながら、しかも天皇家のための歴史に見えるような格好に仕上げたものとして記紀を捉える見地」」(117)
・第五章、律令体制は藤原体制前期の確立、摂関政治は藤原体制後期
・日本の農業社会を弥生から明治までの二千年余の期間で捉えると、この期間に三つの一氏独裁体制が成立した。すなわち天皇家、藤原氏、徳川氏....云々⇒農業社会と一氏独裁体制の内的関連(そもそも内的関連のあるものとして理解するかどうか?)どう捉えるかは別として、この種のperspectiveな見方は魅力的だ。
オスマン帝国衰亡史
アラン パーマー /中央公論社 (1998-03) / 3,564円9 users
購入:  2010年06月21日 3,465円 所有
読了:  2010年09月22日
タンジマート:Wikiには「タンジマート(تنظيمات) Tanzimat とは、「タンジマーティ・ハイリエ(恩恵改革)」の略で、オスマン帝国が皇帝専制体制の下で西欧の市民社会の理念を導入する形で改革を目指したものである。」と解説してある。1821年のギリシャ独立戦争の後、「エジプトのムハンマド・アリーがパシャの称号やシリアの割譲を要求するなど、帝国の威信はますます低下していた。この帝国の危機を救い、スレイマン大帝時代の安定を目指すべく、皇帝アブデュルメジト1世は、外務大臣のムスタファ・レシト・パシャに命じてタンジマート改革に着手させた。」
・英語版Wikiでは、次のように定義している。「The Tanzimat (Ottoman Turkish: تنظيمات), meaning reorganization of the Ottoman Empire, was a period of reformation that began in 1839 and ended with the First Constitutional Era in 1876. The Tanzimat reform era was characterized by various attempts to modernize the Ottoman Empire, to secure its territorial integrity against nationalist movements and aggressive powers. The reforms encouraged Ottomanism among the diverse ethnic groups of the Empire, attempting to stem the tide of nationalist movements within the Ottoman Empire. The reforms attempted to integrate non-Muslims and non-Turks more thoroughly into Ottoman society by enhancing their civil liberties and granting them equality throughout the Empire.」
・一方、「世界歴史事典」第二巻(146.p)は、マフムット二世からアブデュル・アージズに至る時期は、近代化促進時期としてタンジマート時代と呼ばれる、としている。
マフムット二世(1808-1839)時代を、タンジマート改革期に含めるかどうか、これをめぐる論争の背景は、本書第6章「謎の人物マフムト二世」からも推察される。
・「マフムット二世時代の帝国は、中央政府の弱体化、官僚の堕落、イェニチェリの脅威、パシャの不従順に悩まされていた。焦眉の改革はイェチェリの全滅軍事的封建制の廃止並びに軍隊の近代化であった。」(世界歴史事典2-146.p)イェニチェリの全滅については、145-148.p参照
・イギリス公使として着任したばかりのストラトフォード・カニングは、当時を「マフムトはどちらを向いても憂慮すべきことばかりという状況にあった。オスマン帝国は精神的にも、肉体的にも、老衰状態に近かった」と、後年、回想している。128.p
・マフムト二世は、その死後150年後の今も、オスマン帝国の36人のスルタンの中で、最も謎に満ちた人物と言われている。....彼は暴君だったのか、それとも改革者だったのか?気まぐれで信用のおけない人間だったのか、それとも理念を持った支配者だったのか?悲惨な戦争に突っ走る見境のない人間だったのか、あるいは貪欲な近隣諸国から自分の帝国を守る鋭敏な政治家だったのか?信心深いイスラーム教徒にヨーロッパ風の流儀を押し付けた不信心なスルタンと見るか、それとも今日のトルコ人のように義人マフムトと考えるべきか?対照リストは果てしなく続きそうだ。124.p
タンジマート時代は、本書第8章「ヨーロッパの病人?」で扱っている。
・これは、中央集権制と政教分離政策を採用し、しかも、できるだけその専制的性格を保持しようとするこれまでのオスマン帝国宰相の試みの中では最も長続きした。173.p
・(1829年の)和平条約の調印された二日後、委員会はニコライ一世にこう報告した。オスマン帝国を滅ぼせば、オーストリア、フランス、英国をバルカン半島、地中海東部及びその沿岸地域に招き寄せ、地歩を固めさせることになり、結果的にロシアは否応なしに「ますます手のつけようのないほど複雑で厄介な迷路に突入させられる」。159.p(これは、まさに中国が、ないしロシアが北朝鮮問題で現在、直面している頭痛の種だろう。場合によっては米国も。この点の配慮を欠いた偽善的正義感で、難問を一挙に解決してしまおうとしたのが、ブッシュ政権のイラク政策だ。
・軍事的封建制の廃止:オスマン帝国の北西の国境沿いのボスニアとヘルツェゴヴィナでは、タンジマート改革に対して最も大っぴらな敵対があった。過去50年間にわたって、地主たちは歴代のスルタンの西欧化のあらゆる試みに反対してきた。オスマン帝国の最盛期には、48人の知事からなるボスニアの特権的なムスリム軍人階級カペタナーテが、分与された地域の統治を委ねられ、その見返りとしてスルタンの騎兵隊にスィパーヒと呼ばれる分遣隊を提供していたが、マフムト二世の封土制度廃止条例によって、この制度は消滅した。178.p
文明の多系史観―世界史再解釈の試み (中央叢書)
村上 泰亮 /中央公論社 (1998-07) / - 7 users
読了:  2010年01月13日
◆さいたま市図書館、10/01/08
・「歴史研究の単位」を決めるには、何らかの根本的大革新を選び出すことが不可欠、過去の根本的大革新のリストを挙げてみると、生産技術の大革新の系列と社会組織の大革新の二つの時系列が考えられる。
・狩猟採集社会⇒(農業革命を経て)農耕・牧畜社会⇒(産業革命を経て)産業社会
・バンド社会⇒平等型の血縁社会⇒成層化した血縁社会⇒下位に血縁組織を持つ複合社会⇒血縁中心を脱した社会⇒属性中心を脱した社会、64-65.p
・二つの大革新の歴史的時系列は、交錯しあっているだろうことを強調したい。一方の時系列をそのままの形で理論化すれば、そこから単系的な発展論が導かれる。しかし二つの時系列を交錯させ、さらに文明接触という要因を採り入れることによって、多元的な比較文明論の構成を試みる。(「多系史観」の意味合いはここにある!
・「歴史研究の単位」として文明を捉えると、あらゆる種類の歴史上の変化は、論理的に、次の三つに分類される。
すなわち、1.文明創発的革新、2.文明間接触、3.文明内進化、67.p
・人類史上の大革命についての伊東俊太郎の議論、
人類革命/農業革命/都市革命/精神革命/科学革命
◯都市革命説の問題点、
・人口の増加圧によって大河の氾濫原に進出せざるを得なくなったという「挑戦」に対して灌漑技術の開発という「応答」が必要になったために制度化された中央集権的権力が成立したと説明する。
・しかし水利技術は、都市化以前にかなり発達していたし、逆に都市を持つ社会の灌漑技術が飛躍的に進歩したという考古学的な証拠もない。
・一方、灌漑技術を持たない都市化された文明、焼畑農業に依存する中米のマヤ文明、や地中海複合栽培に依存するミノア=ミケーネ文明、南米のアンデス文明などの例を考えると、「灌漑技術の成立が都市革命を生み出した」という説明には無理がある。
・また、ミケーネ文明やマヤ文明には、大規模な宮殿や城塞はあるが、都市というほどの大集落がなかった点から岩村忍の云うように「都市と文明は必然的な関係によって結ばれているものではなかった」と見るのが妥当。
・農業革命が、それまでの社会とははっきり断絶した新社会を作ったのに比べると、「都市革命」的現象には不連続的な性格が比較的弱いように思われる。「都市革命」的現象は、一つの文明の起点というよりも、文明のピーク、血縁的な階層社会の「文明内進化」過程のピークと考えたい。そのピークに続く次の大きな飛躍は、技術的大革新ではなく、文明接触による大文明帝国の建設という形で現れ、それによって農業革命の技術的含意を展開した農業革命前半期の文明が終了する。77-81.p
・農業革命と産業革命と云う二つの「技術的」革新の間には、いくつかの「文化的」革新の可能性を考えられる。中でも重要な社会的変化の候補としては
イ.人類最古の組織原理として「血縁」が挙げられるが、血縁原理はいつまで続いたのか?
ロ.世界各地の「古代宗教」と、それを超える「有史宗教」との区別は何か、移行はいつ始まったか?
ハ.古代帝国と文明大帝国との区別の基準は何か、そもそも区別出来るのか?83.p
・血縁の関係と古代宗教観念とは同じ社会組織原理に属する。この原理は農耕社会段階の前半を断絶なく支配する圧倒的な社会組織上のライトモチーフである。従って血縁と古代宗教を超える決定的大革新は、宗教上の革新でなければならない。それは有史宗教(または世界宗教)であり、有史宗教の有無によって農耕文明は二つに分類され、有史宗教に基づく農耕社会は第二次農耕文明(中国、ヒンズー、ギリシャ・ローマ文明)とみなすべきである。/古代宗教と有史宗教の区別は、ベラーによれば、後者は「ある意味で超越的で」抽象的な宇宙原理または唯一の創造神に基づいて、現世を超える世界を持ち、何らかの点で現世拒否的な要素をもち、神話の束縛を脱している。また「有史宗教はすべて普遍主義的である。人間はもはや、もっぱらどの種族や部族の出身であるか、或いはどの神に仕えているかではなく、むしろ救済されうるものとして定義される。つまりは、初めて人間そのものを把握することが可能になったのである」/(このような大革新の契機は何か?)非常に異質な二つの社会、農耕社会と遊牧社会が接触し交渉し反応したこと、言い換えれば「文明接触」による「文化的」革新が古代宗教から有史宗教への転換の契機となった。すなわち、人類史は技術決定論や生産力決定論では充分に理解できない。90-92.p
ニーナ・B事件 (中公文庫)
J・M・ジンメル /中央公論社 (1986-08) / 545円3 users
所有 読了:  2009年10月22日
・紹介には「第二次大戦後の西ドイツ。混乱期からようやく経済復興が軌道に乗り始めた時期に、瞬く間に巨大貿易会社を築き上げたユリウス・ブルンマー。しかし、彼の成功の影には人知れぬ陰謀と犯罪の数々が...。」とあるが、陰謀も犯罪も社会的背景から浮いており、まさに下線部の「時代」が描かれていない。半分程度を読んだ時点で、すっかり興を失う。
吉田茂とその時代 (上巻) (中公文庫)
ジョン・ダワー /中央公論社 (1991-08) / 902円8 users
タグ 政治 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 政治 更新日:2009年10月16日 20時17分04秒 2009/10/16
購入:  2009年05月11日 877円 所有
読中: 
・今世紀の初めから1950年代半ばまでをひとつの単位として論じている数少ない歴史研究(13)、戦前から戦後への保守主義の遺産の研究(17)
・結婚によって明治の寡頭支配者たちとの人的つながりと、また天皇側近にまつわる一団に仲間入りする手段とを獲得した。吉田は1906年、日本が日露戦争の勝利に続いて世界の強国としての役割を負うことになった、ほとんどまさにそのときに、外交界に入った。当時は28歳で、1912年に明治天皇が逝去し明治の代が45年で終わったときは34歳になっていた。吉田は30年にわたって、時刻の帝国主義的な成長と安全の探求に参加した。(31)牧野を通じて吉田が皇室への近接性を確立し、それが彼の尊皇心に個人的な側面を加えた。ことに1930年代以後、吉田は上層社会のみならず華族と宮廷貴族の中に入っていった。(56)
・尊皇心こそは、他のいかなる要素にも劣らず、吉田の戦前と戦後の世界への対処の仕方を規定し、またその焦点となったものである。(45)
・(戦後、戦争犯罪容疑をかけられ自殺する直前に述べたとされる近衛の吉田評)吉田君に好意を持っている点では人後に落ちない。だが吉田君の意識は《大日本帝国》時代の意識だ。これが戦争に負けた日本のこれから先うまくいくだろうか。(60)
・(中国政策の見解)吉田の見るところ、大隈内閣は立て続けに二つの誤った政策をとったことによって、ただでさえもろい機構を全く損ねてしまう恐れがあった。第一は21ヵ条要求、続いて支那浪人を黙認して袁世凱政府を揺さぶる策動、在満日本領事たちに、評判の悪い第五号を主に取り上げて「要求」を論難する陳情書を回そうとした。また支那浪人たちを「浮浪輩」と呼んで軽蔑し、その活動を「掠奪暴行にほかならず」と決め付けている。一方、大隈内閣はこれらの挑発者の策謀を袁世凱政府を揺さぶるのに好都合と見て、彼らの策動の取締りを「手加減」する方針を採っていると伝えられた。さらにこの策動は尾崎行雄ら自由派閣僚の賛同を得て、陸軍の一部と合意のうえ、「第二次満蒙独立計画」へとつながった(71-72)。
・(吉田の対中国政策の基本は)欧米諸国がアジアで効果的に用いた砲艦外交の日本版であると見てよい。1927-28年の初めに、吉田は「積極外交」支持の点では田中首相よりも急進的で、この数年間の吉田の主張は、28年6月に張を退却の途中に暗殺した軍部積極分子、または三年後に鉄道付属地と租借地の外に進出し、東三省全域で「治安維持」に努めるまでになった関東軍の主張と、余り変わりないものであった(112)。
・20年代末の日本の政策立案者は、欧米諸国との調整に意を用いず、いわば「真空状態」の中で考える傾向があったとの議論がある。吉田に関しては、アメリカには大した関心を払わなかったが、イギリスの「完全なる了解」を必要を力説しており、この議論は当たらない。東方会議では吉田は欧米の疑惑を招くような中国政策は「否定的結果を招きかねない」と警告していた(116)。
・1928年7月、吉田は田中内閣の外務次官になる。その直前の4月に長文の「対満政策私見」を提出する。それはこの時点での(吉田の)「帝国意識」の独創的な表現を意味する。(「私見」は122-28を参照)
牧野の尊皇主義、日本には、他国にはない安全装置がある。すなわち皇室です。天皇は至高であり、必ず最後の断を下されるでしょうから、軍事ファシズムにせよ、共産主義あるいは他のいかなる主義にせよ、危険は決してありません云々。(167)(1935年3月、パリの新聞編集者デュボスとの対談で、デュボスが日本には政党間の反目と腐敗があり、軍事ファシズムかまたは共産主義の危険があると指摘したのに対する牧野の反応。共産主義の「危険」は、幻影に対する過剰反応だが、軍事ファシズムの危険は、この段階では充分に予知しうるもので、天皇の「至高」性が防波堤になりうるとするのは、自ら戦う意志のない連中の希望的観測に過ぎない。)
ジョン ダワー /中央公論社 (1991-09) / 877円4 users
購入:  2009年05月11日 877円 所有
未読: 
オルソラ ネーミ , ヘンリー ファースト /中央公論社 (1988-03) / 897円7 users
購入:  2009年05月13日 897円 所有
読了:  2009年05月17日
バルザックのカトリーヌ・ド・メディシスを読んだ関連で古書で購入。
5百頁余に及ぶ年代記的記述は、フランス諸侯の中の第一人者に過ぎぬ王権の確立に権謀術数の限りを尽くすメディシスを精細に描いている。しかしその特徴づけにおいて、僅か数十頁に凝縮されたバルザックの「カトリーヌ・ド・メディシス」の序章には遠く及ばない。

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