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カテゴリ 読書 購入 所有 お気に入り 1 - 30件目 / 42件
ローマ人の物語 (2) ハンニバル戦記
塩野 七生 / 新潮社 (1993-08-01) / 3,024円156 users
タグ 歴史 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2012年06月24日 09時44分40秒 2012/06/24
読了:  2012年06月24日
・再読
・資産階級別軍役制度(紀元前6世紀&241BCの改革後の比較表)79⇒「ローマ社会の中産階級化」云々;
Polybius, Histories(Plb. 6.19;On the Roman Army
・ハンニバルとスピキオの会見の場面、殊に二回目の会見が面白い。
・覇権の交代
ローマ人の物語 (1) ローマは一日にして成らず
塩野 七生 / 新潮社 (1992-07-01) / 2,484円181 users
タグ 歴史 ローマ カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2012年06月10日 12時40分24秒 2012/06/10
所有 読了:  2012年06月10日
・ギリシャ文明の梗概(88-142)
・安定した三極構造(王政時代)から事実上の二極構造(共和制時代)への変容に伴う不安定化(145-149)
・BC494、平民のローマ退去(モンテサクロへの退去)⇒護民官の設置(149-150)
・「農地法」をめぐる対立
・十人委員会の設置及び十二表法の制定(BC449)、153-156;マキャヴェリ【政略論】(1-35参照)
・ローマ貴族の支配基盤=クリエンテス(156-159)、貴族と平民の抗争は既存勢力対新興勢力という単純な図式では捉えられない。貴族とクリエンテスである平民の合体した勢力対(クリエンテス外の)平民との抗争との側面(160)
・BC400~390頃、ローマのエトルリア攻略(396年、ウェイ占領)、エトルリアの盾を失い、以後ケルト族の波状的な来襲を受け、(ケルトはギリシャ人の命名、ローマ人はガリア人と呼んでいた。「ケルト人」及びその居住地域(BC400年頃)については、Wikiを参照)7ヶ月間にわたってローマを占拠される。身代金を支払う条件で都市ローマから退去する(169)。
・ケルト族来襲後の困難なローマの防衛と再建に貢献したのはカミルス(「ロムルスに次いでローマの二人目の建国者と賞賛されながら....云々」Plutarch, Camillus)179
・リキニウス法(BC367)、軍事担当官制の廃止、執政官制度の復活および平民出身者への全面開放。アテネもローマも権力は寡頭政派と民主政派の二重構造だったという点では共通する。アテネは二極が交代で政権を取ったのに対して、ローマは既成勢力が新興勢力を抱き込むのを常套手段とした。(184-185)
・ローマの共和政は、王政時代の政治制度の三本柱の王、元老院、市民集会の内の王だけを、二人の執政官に代えただけでスタートした。(189)
・共和政ローマの政治制度の構造的図解(193);各官職の権能(189-204)
・ローマの元老院(&ヴェネチアとの比較)、(201-3)
・ローマ連合の内実;五種類の連合国(211-15)
ローマ亡き後の地中海世界(上)
塩野七生 / 新潮社 (2008-12-20) / 3,240円161 users
タグ 歴史 ローマ カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2012年02月07日 09時48分59秒 2012/02/07
読了:  2012年02月07日
・作業日誌(12/02/06-07、参照
船戸 満之 / 情況出版 (2002-10) / 2,520円1 users
タグ 哲学/思想 政治思想 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2012年01月31日 10時58分58秒 2012/01/31
読了:  2012年01月31日
・図書館から借りる。
・多分、【啓蒙の弁証法】と同じテーマを主題とする?書評集。
・取り上げられた対象のなかから「読んでみたい」と触手の動くものは
・アーレント【暗い時代の人々】
・ブレヒト【作業日誌】
・エンツェンスベルガー【意識産業】
・ミューラー【闘いなき戦い】
近衛文麿「黙」して死す―すりかえられた戦争責任
鳥居 民 / 草思社 (2007-03-21) / 1,620円13 users
タグ 歴史 政治 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2012年01月20日 15時30分52秒 2012/01/20
読了:  2012年01月20日
・本書のポイントは、筆者が木戸・ノーマン史観というもの、すなわち「戦争開始の真の責任者は軍令部総長の永野修身ではなかった。参謀総長の杉山元でもなかった。首相・陸相を兼任した東条英機でもなかった。ましてや近衛文麿であるはずはなかった。内大臣・木戸幸一に全責任があったということだ」77pに尽きる。「今日までの60年間、誰も云わなかったこと、未だに云おうとしないこと...」云々と書いているが、だれか”特定の”個人に、かかる歴史的展開の「全責任」があるかに想定すること自体が、歴史研究としては幼稚にすぎる。
日記に読む近代日本 4: 昭和前期
土田 宏成 / 吉川弘文館 (2011-09-06) / 3,132円6 users
タグ 歴史 政治 文学 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2012年01月09日 08時17分02秒 2012/01/09
所有 読了:  2012年01月02日
・紹介されている西園寺公と政局、木戸幸一日記、高木惣吉日記、矢部貞治日記、断腸亭日乗、戦中派不戦日記などは、すべて既読のもの。但し、ほとんどが20年以上前で【西園寺公と政局】だけはビックスの【昭和天皇】および【われ巣鴨に出頭せず】を、去年の夏に読んだ際に、関連ヶ所を拾い読みした。
・改めて高木惣吉日記、矢部貞治日記、断腸亭日乗等をこの機会に(1-2月の農閑期中に)読み直したくなり、前二冊は図書館で、荷風日記は全集版で購入して再読(または予定)。
・宇垣日記は拾い読みシたことがあるだけだが、特異な軍人として記憶している。今回、この本で認識を新たにした。
・宇垣&高木のような合理的精神(石原莞爾は合理的精神と云うより、ある種の理想主義が先に立つタイプかな?保留)が、「潰されていく土壌」がどのように形成されたかを探求すべきかな。
・別に「登録」した【高木惣吉 日記と情報】は、高木日記を読み解く重要な基礎資料で、日記と併読すること。
・林芙美子の「北岸部隊」は、初めて読む。作家らしい優れた人間観察だ。異常な環境下での異常な人間心理は、日常性の延長上で理解しようとするには無理がある。とはいえ、日常性の基礎の上に成り立つ一面もあるのではないか。
・巻末の編者による「同時代の日記」;かなりは目を通しているが、初めて知ったものも幾つか紹介されている。
モスクワ攻防戦――20世紀を決した史上最大の戦闘
タグ 歴史 政治 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2011年02月07日 14時55分21秒 2011/02/07
読了:  2011年02月07日 星5つ
・11/02/04岩槻図書館、
・農のある風景」11/02/06&07参照
タグ 農業 歴史 食物 社会 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2011年02月03日 12時09分18秒 2011/02/03
読了:  2011年01月29日
・11/01/25岩槻図書館で借りる。
・インカ王は新たに王国あるいは地方を征服すると、まず太陽崇拝とインカの規律に従って統治の礎を築き、更に住民の生活様式を定めた後、耕地を増やすように命じたが、この耕地とはトウモロコシのなる畑のことであり、この目的のため灌漑技師が派遣された。....技師たちは、利用しうる土地の広さに応じて、それに必要なだけの水路を開いたが、それというのも、元来ペルーの土地はひどく痩せていて穀物の栽培に適さなかったため、それを開墾して、出来る限り耕地を増やそうと努めたからである。380.p
・こうして拡大した各地方の全ての耕地を、それぞれ町ごとに測定し、それを三つに分けた。すなわち、その一つを太陽に、また一つをインカ王に、残りの一つを住民に属するものとした。この分配にあたっては、住民が自分たちのタネを播く畑を充分に所有するよう、常に配慮がなされ、大抵の場合、むしろ余分に与えられた。そして、ある町の、あるいはある地方の人口が増えた場合、太陽とインカ王に割り当てられた土地の一部が臣下に回された。従って、王が自分と太陽のために保持していた土地というのは、そうでもしなければ所有主を欠き、荒廃に帰してしまうことになる耕地だったのである。段々畑は大体において、太陽とインカ王に割り当てられたが、それというのも、段々畑の造営を命じたのがインカ王だったからである。灌漑されたトウモロコシ畑の他に、水の引かれていない耕地もまた分配され、そこでは乾地農法によって、別の穀物や野菜、例えばパパ、オカ、アニュスと呼ばれる、非常に重要な作物の種がまかれた。このような耕地の分配もまたきちんと三分割によって行われ、太陽、インカ王と同様、臣下に三分の一が与えられた。しかし、こうした土地は水不足故に生産性が低いので、一、二年耕しただけでこれを休ませ、今度はまた別の土地を分配する、ということが繰り返された。このように彼らは、循環的に使用することによって絶えず豊富な収穫が得られるよう、やせ地を見事に管理運営していたのである。381.p
カチンの森――ポーランド指導階級の抹殺
タグ 歴史 政治 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2011年02月03日 10時40分46秒 2011/02/03
読了:  2011年02月03日
・11/02/01、岩槻図書館で借りる。
嫌になるほどおぞましい歴史。スターリンの伝記は、具体的事実が知られるほどに、また晩年に至るほどに、単なる犯罪者に過ぎないのではと思えてくる。しかし、それが国のトップに居座るとともに、国家の官僚機構・法システムそのものが、あたかも自動機械のように作動し始め、一定の条件のもとでは、民主主義的な国家間の関係に於いてさえも合法化され・見逃されてしまうことを、肝に銘じておくべきこと!
・階級浄化とは、マルクス・レーニン主義を基本的イデオロギーとして採用した全体主義政権によって実行された、ひとつの社会階級全体の計画的・系統的抹殺の政策である。しかしスターリン主義の実践では、階級浄化と民族浄化にはしばしば密接な関係があった。54.p
・階級浄化の思想、我々は個々人に戦いを挑んでいるのではない。階級としてのブルジョワーを破壊しつつあるのだ。調査を通じて我々は、被告がソヴィエト権力に言辞行動で反対した証拠を探すまでもない。投げかけられるべき第一の質問は、被告がどの階級に属しているかである。59.p(この命令は、1918年に出されている。「民族浄化」の思想と紙一重、ほとんど瓜二つの兄弟と言っても良いか。
・西側政府の積極的な幇助がなかったならば、ソヴィエト指導部は半世紀ものあいだカチン虐殺の自己責任を隠しおおすことはできなかっただろう。西側政府は入手していた情報を隠蔽し、事件を握りつぶそうと全力を尽くした。アメリカ政府は1950年代始めまで、イギリス政府はソヴィエト政権の崩壊まで、この態度を変えなかった。73.p
・20世紀後半の歴史学と世論が、カチン事件についてかたくなに沈黙したり、情報を抑えたり、調査しなかった理由はなんだろうか。この事件には、長い間欧州人の意識の中で抑圧されたり、あるいは消去されていた多くのタブーが潜んでいるからだ。131.p
・1944年、亡命ポーランド政府にチャーチルの特使として派遣されていたオーウェン・オマレーは、カチン問題の提起とポーランド領土の一体性の擁護に消極的な西側指導者に反発して断言した。「道徳的に擁護できないことは常に政治的に実効性がない」。139.p(多分、長期的あるいは原理的立場から考えれば、その通りだろう。しかし「マルクス・レーニン主義を基本的イデオロギーとして採用した共産主義政権」は、階級闘争を至上の概念とすることであらゆる非道徳的行為を道徳的に見せかけてきたことを忘れるべきではない。)
新しい歴史―歴史人類学への道 (藤原セレクション)
E.ル=ロワ=ラデュリ / 藤原書店 (2002-01) / 2,100円5 users
タグ 歴史 社会 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2011年02月03日 07時22分07秒 2011/02/03
読了:  2011年02月03日
・「農のある風景」11/02/01、11/02/03、11/02/04等を参照
じゃがいもが世界を救った―ポテトの文化史
ラリー ザッカーマン / 青土社 (2003-03) / 2,808円10 users
タグ 歴史 社会 農業 食物 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2011年01月28日 16時28分52秒 2011/01/28
読了:  2011年01月28日
・11/01/21、岩槻図書館で借りる。
新詳資料 地理の研究
帝国書院編集部 / 帝国書院 (2010-05) / 1,008円3 users
タグ 地図 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2010年09月26日 04時01分40秒 2010/09/26
購入:  2010年09月25日 980円 所有
読中: 
・地球上の水の総量は13.9億立法メートルで、そのうち陸水は0.3%、さらに陸水の50%以上は氷で、残りの49%以上は地下水として存在し、循環水は0.02%に相当する。38.p
オスマン帝国衰亡史
アラン パーマー / 中央公論社 (1998-03) / 3,564円8 users
タグ 歴史 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2010年09月22日 17時08分15秒 2010/09/22
購入:  2010年06月21日 3,465円 所有
読了:  2010年09月22日
タンジマート:Wikiには「タンジマート(تنظيمات) Tanzimat とは、「タンジマーティ・ハイリエ(恩恵改革)」の略で、オスマン帝国が皇帝専制体制の下で西欧の市民社会の理念を導入する形で改革を目指したものである。」と解説してある。1821年のギリシャ独立戦争の後、「エジプトのムハンマド・アリーがパシャの称号やシリアの割譲を要求するなど、帝国の威信はますます低下していた。この帝国の危機を救い、スレイマン大帝時代の安定を目指すべく、皇帝アブデュルメジト1世は、外務大臣のムスタファ・レシト・パシャに命じてタンジマート改革に着手させた。」
・英語版Wikiでは、次のように定義している。「The Tanzimat (Ottoman Turkish: تنظيمات), meaning reorganization of the Ottoman Empire, was a period of reformation that began in 1839 and ended with the First Constitutional Era in 1876. The Tanzimat reform era was characterized by various attempts to modernize the Ottoman Empire, to secure its territorial integrity against nationalist movements and aggressive powers. The reforms encouraged Ottomanism among the diverse ethnic groups of the Empire, attempting to stem the tide of nationalist movements within the Ottoman Empire. The reforms attempted to integrate non-Muslims and non-Turks more thoroughly into Ottoman society by enhancing their civil liberties and granting them equality throughout the Empire.」
・一方、「世界歴史事典」第二巻(146.p)は、マフムット二世からアブデュル・アージズに至る時期は、近代化促進時期としてタンジマート時代と呼ばれる、としている。
マフムット二世(1808-1839)時代を、タンジマート改革期に含めるかどうか、これをめぐる論争の背景は、本書第6章「謎の人物マフムト二世」からも推察される。
・「マフムット二世時代の帝国は、中央政府の弱体化、官僚の堕落、イェニチェリの脅威、パシャの不従順に悩まされていた。焦眉の改革はイェチェリの全滅軍事的封建制の廃止並びに軍隊の近代化であった。」(世界歴史事典2-146.p)イェニチェリの全滅については、145-148.p参照
・イギリス公使として着任したばかりのストラトフォード・カニングは、当時を「マフムトはどちらを向いても憂慮すべきことばかりという状況にあった。オスマン帝国は精神的にも、肉体的にも、老衰状態に近かった」と、後年、回想している。128.p
・マフムト二世は、その死後150年後の今も、オスマン帝国の36人のスルタンの中で、最も謎に満ちた人物と言われている。....彼は暴君だったのか、それとも改革者だったのか?気まぐれで信用のおけない人間だったのか、それとも理念を持った支配者だったのか?悲惨な戦争に突っ走る見境のない人間だったのか、あるいは貪欲な近隣諸国から自分の帝国を守る鋭敏な政治家だったのか?信心深いイスラーム教徒にヨーロッパ風の流儀を押し付けた不信心なスルタンと見るか、それとも今日のトルコ人のように義人マフムトと考えるべきか?対照リストは果てしなく続きそうだ。124.p
タンジマート時代は、本書第8章「ヨーロッパの病人?」で扱っている。
・これは、中央集権制と政教分離政策を採用し、しかも、できるだけその専制的性格を保持しようとするこれまでのオスマン帝国宰相の試みの中では最も長続きした。173.p
・(1829年の)和平条約の調印された二日後、委員会はニコライ一世にこう報告した。オスマン帝国を滅ぼせば、オーストリア、フランス、英国をバルカン半島、地中海東部及びその沿岸地域に招き寄せ、地歩を固めさせることになり、結果的にロシアは否応なしに「ますます手のつけようのないほど複雑で厄介な迷路に突入させられる」。159.p(これは、まさに中国が、ないしロシアが北朝鮮問題で現在、直面している頭痛の種だろう。場合によっては米国も。この点の配慮を欠いた偽善的正義感で、難問を一挙に解決してしまおうとしたのが、ブッシュ政権のイラク政策だ。
・軍事的封建制の廃止:オスマン帝国の北西の国境沿いのボスニアとヘルツェゴヴィナでは、タンジマート改革に対して最も大っぴらな敵対があった。過去50年間にわたって、地主たちは歴代のスルタンの西欧化のあらゆる試みに反対してきた。オスマン帝国の最盛期には、48人の知事からなるボスニアの特権的なムスリム軍人階級カペタナーテが、分与された地域の統治を委ねられ、その見返りとしてスルタンの騎兵隊にスィパーヒと呼ばれる分遣隊を提供していたが、マフムト二世の封土制度廃止条例によって、この制度は消滅した。178.p
趙紫陽 極秘回想録   天安門事件「大弾圧」の舞台裏!
タグ 政治 歴史 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2010年08月24日 22時54分27秒 2010/08/24
未読: 
◆宮崎正弘のMMに書評、10/02/06
・本書の一番面白い意義とは中南海の権力闘争の実態である。
 趙紫陽は最初のころ、堅物の社会主義者で革命元勲のひとり、陳雲と親しく、トウ小平とは直通の連絡回路がなかった。
趙紫陽は自分の秘書に手紙を託して届けさせたり、有力者を通じて伝言させたりという複雑な通信回路をへて、幹部同士が意思を連絡しあい、しかも最終の決定機関は政治局常務委員会ではなく、トウ小平の自宅でなされたこと。長期的な戦略決定は北戴河の別荘でおこなわれていたことが確認できる。
いかに超法規の国!
・1989年四月の段階で趙紫陽は北朝鮮へ行く。
この間、北京の天安門前広場を中心に学生デモが燃え広がり、座り込みが世界のテレビで報道された。4月26日に人民日報は社説を掲げて民主化に反対した。この社説は趙紫陽の留守を狙って李鵬らが書かせた。
 趙紫陽は回想する。
 「桃依林と李鵬は結託し、なんとかして私に(人民日報の)社説を支持させようと画策した」「トウ小平は自身の強硬発言が知れ渡り、若者達の自分に対するイメージが傷ついたとかんがえ、「若者達を愛する庇護者であるという言葉を必ず演説のなかに入れるよう(娘を通じて)求めてきた」。
 趙紫陽は「主流派の支持を得ることが大切だということも強調した。トウ小平は態度を曲げず、このままでは李鵬や桃依林ら党の強硬派の態度を変えさせるのは不可能だった」。
 「なんとしてもトウ小平と話して支持を得ようと思った。そこでトウの秘書の王瑞林に電話をかけて、面会を求めたが体調不良を理由に断られた」。
 ついで趙紫陽は楊尚昆に連絡して貰おうと楊尚昆の自宅を訪ねたが曖昧な態度だった。
 こうして誰と誰が、その日は趙紫陽に賛成し、翌日は態度がかわり、その次の日は曖昧となりといった具合で、中国共産党の最高権力層にしてからが二転三転右往左往していた様子が手に取れる。楊は強硬派の代表のように日本のマスコミが伝えたが、実態は趙紫陽に近い改革派の側面を兼ねていた。
(以上「書評」から)
韓国の歴史―国定韓国高等学校歴史教科書 (世界の教科書シリーズ)
タグ 歴史 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2010年03月27日 06時43分26秒 2010/03/27
購入:  2009年11月20日 3,045円 所有
読中: 
・旧石器人が住み始めたのは約70万年前からである。
・新石器時代は紀元前6千年前頃から始まった。
・新石器時代に続いて韓半島では紀元前10世紀頃に、満州地域ではこれより早く青銅器時代が始まった。紀元前4世紀頃から鉄器が使われ始めた。特に、鉄製農機具の使用で農業が発達し、経済基盤が拡大した。
・青銅器文化の発展と共に君長が支配する社会が出現した。中でも勢力の最も強い君長は周辺の社会を統合して、次第に権力を強化していった。
・古朝鮮は遼峯地方を中心に成長し、次第に隣接した君長社会を統合して韓半島まで発展したと見られるが、これは琵琶形銅剣の分布で知ることが出来る。(古朝鮮の勢力範囲の地図、43頁参照)
・檀君の記録は、青銅器文化を背景にした古朝鮮の創立という歴史的事実を反映している。41(ここでは「記録」としているのに対して、『古代朝鮮』では、「檀君神話と箕子伝説は。高麗時代の階級を代表する二大思潮である。檀君神話は1231年からはじまるモンゴルの侵入に対抗する全国的な農民の義兵闘争を基盤とする被支配階級の民族主義的思潮である」20、「この神話は極めて古い朝鮮の史実を伝えるものではない」24、としている。)
・高句麗覇建国初期から周辺国を征服して、平野地帯に進出しようとした。鴨緑江辺の国内城に移って、五部族連盟を土台に発展した。その後、漢の郡県を攻略して遼東半島に進出した。
・漢江以南の地域には早くから辰が成長した。古朝鮮社会の変動で大挙南下した流民による新しい文化大陸の先進文化の担い手ということか?)が普及して、土着文化と融合して社会は一層発展した。やがて馬韓、辰韓、弁韓の連盟体が現れた。
◆古代社会
・高句麗、百済、新羅の国家発展と共に古代社会が成長した。古代社会は内には、強力な王権と整備された律令を基礎にした中央集権国家を達成し、外には活発な征服活動によって領域国家としての姿を帯びていった。
高句麗社会は、扶余からの流移民と鴨緑江流域の土着民集団が結合して生まれた。中国文化と北方の遊牧文化に接した経験を土台に結束力を強化し、二世紀には征服国家体制に転換した。

◆5章、近世社会の発達
・朝鮮社会の運営は身分制を基礎においていた。身分は、血縁によって世襲されている社会的地位を法制的に確認し、統治面ではこれを土台にして役割分担するものである。..身分は大きく良人と賎人に分けれられ、更に良人は職業、家柄、居住地などに従って両班、中人、常民に分けられ、社会的役割分担が行われ、かつ身分層間の相互交流は抑制された。..両班は文班と武班の通称から発した社会的身分。儒学を学んだ学者で高級官僚層。218.p

◆6章、近代社会の胎動、キーワード(朝鮮後期社会、両班中心の社会構造、農民運動、内部的脆弱性)
・朋党政治は勢道政治に変わり、257
・両班支配体制の動揺、257
◆7章、近代社会の展開
・大院君(1863-73)の対内政治、外戚の勢道で権勢を享受してきた安東金氏一族を政界から追放し、党派と身分ではなく能力に拠って人材を登用した。朋党政治と勢道政治の弊害を除去し、専制王権の強化を狙った。・・・伝統的な統治体制を再整備して国家機構を立て直し、農民に対する両班支配層の不当な抑圧と収奪を禁止し、民生を安定させることに寄与した。324、326.p
世界史のなかの縄文文化 (考古学選書)
安田 喜憲 / 雄山閣 (2004-11) / 4,725円1 users
タグ 歴史 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2010年02月08日 17時42分21秒 2010/02/08
読了:  2010年02月08日
◆さいたま市図書館、10/01/31
・形質人類学と考古学の成果から、縄文人の祖先は、約3.3万年前以降に日本列島に出現した古モンゴロイドである可能性が高い。56.p
・海洋的日本文明の原点、北欧で、ハシバミやマツ類の疎林が拡大してくるのは、完新世のプレボレアル期に入ってからであり、ナラ類、シナノキ類、ニレ類などの落葉広葉樹の森が拡大してくるのは、9千年前頃のことである。日本列島でも北緯40度以北の東北地方北部にブナ林が拡大出来るのは丁度このころである。しかし北緯40度以南の多雪地帯を中心としてすでに1.65万年前からブナやナラ類の落葉広葉樹の森が拡大していた。北欧における落葉広葉樹の森の拡大は、日本列島より7千年以上も遅れている。(土器の出現が、日本列島より1万年近く遅れているが)落葉広葉樹の森の拡大の遅れとの間には深い関わりがあるのではないか。152.p
・北欧と日本列島における晩氷期から完新世への自然環境の激動の中で、草原の狩猟民から森の狩猟・漁撈民への移行という世界史の中の生態史的並行現象が見られるが、森の拡大の遅れた北欧では、この移行は日本列島より1万年近く遅れた。154.p
・海面が上昇し、対馬海流が流入することで、直ちにブナやナラ類の落葉広葉樹の森の生育に適した海洋的風土が形成された日本列島では、世界に先駆けて森の生態系に適応した人間=自然系のシステムが導入・樹立され、技術革新が引き起こされ新たなライフスタイルが確立されたとみられる。それを縄文文化の誕生と位置づけたい。158.p
・(都市化、国家、高度の宗教などを文明の指標とみる考え方そのものの再検討が必要であり)縄文文化を日本文明の原点と見る出発点は、今日までつながる日本文明を可容した自然生態系の根幹が形成されたときに求められる。日本列島に大陸性気候が支配的であった後期旧石器時代の文化は、海洋的風土のもとに発展した現代の文明には、直接つながらない。海洋的な日本文明が発展する舞台の確立は、1.5万年前をまたなければならなかった。....新たに出現した海洋的な自然と人間の関わりのシステムをもっとも明瞭に具現しているのが、ブナやナラ類の温帯の落葉広葉樹の森の資源に依存した生業の出現である。その森の生態系に適用していくなかで、普遍的な生活様式が確立したことのあかしが、縄文文化の誕生ではないか。160.p
・いま問われているのは文明の価値観の転換であり、新しい文明概念の創造である。都市や国家の発生に文明の誕生を求める都市型文明論では、この21世紀初頭の工業技術文明の危機に活路を見つけ出すことは出来ない。161.p
・縄文農耕論、縄文時代前期から後期にかけて、西日本の照葉樹林帯には、アサ、ゴボウ、リョクトウ、ヒョウタン、カジノキなどの栽培を伴う農耕が、狩猟採集とセットに成って存在した。世界史のなかで、日本列島が農耕文明の光を受けるのは、ユーラシア大陸の先進文明地帯に比べて、数千年以上も遅れ、縄文時代は未開・野蛮の中にあったというこれまでの定説はならたたないことが明らかになった。日本列島に農耕が伝播した時代は、イギリスのみでなく北西ヨーロッパに農耕が伝播した時代と同じか、より古いことが明らかになった。一方、東日本のなら、クリ林帯には縄文のクリ林と読んでも良いくらいの著しく集約的な堅果類の利用体系が、狩猟採集とセットになって存在した。青森県三内丸山遺跡の発見によって、花粉分析の結果から遺跡周辺にクリ林が存在したことが実証された。204.p
風土、ないし気候的特性に応じた農耕文明が発展するのは当然である。日本の農耕文明の始まりを、専ら稲作農耕に限定して考える捉え方には前々から疑問に思っている。その意味では、焼畑農耕に注目した畑作農業が縄文時代に早くも発展し、それが稲作農耕の発展を準備したという考え方は注目すべき卓見である。しかし、殊更、「縄文文明」の先進性を強調する筆者の見解には違和感を覚える。(10/02/08)
日常性の構造1 物質文明・経済・資本主義―15-18世紀
タグ 歴史 経済 社会 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2010年01月22日 09時43分46秒 2010/01/22
読了:  2010年01月20日 星5つ
◆さいたま市図書館、10/01/19(社会経済構成史や政治的上部構造の分析を中心とした歴史分析を、もっぱら「歴史」と見なす立場から見れば、全く異質の・時に瑣末な日常的些事の沼地に足を取られたかの感さえある日常世界が展開される。それはまさに、考古学的発掘にも等しい埋れた記録の丹念な掘り起しによって、15-18世紀に生きた人間の日常的世界の「構造」を再現しようとする至難の技とも云える試みであり、この時代の人々の息遣いを初めて、多少とも感得させる歴史的業績とも云える。
・中国においてもヨーロッパにおいても、18世紀に入るとともに砕け散ったもの、それは生物学的旧制度である。77.p(生物学的旧制度、多分、生と死との拮抗、貧民に常習的に襲いかかる死の日常性を表現しているのだろうが、その意味合いが、やや曖昧だな!!
・エリザベス朝末期に救貧法が登場した。実はこれは貧民に対抗する法律であった。西ヨーロッパ全域を通じて、貧民及び望ましからざる者のための施設が増大していった。救貧院においても、懲役場においても、被収容者は強制労働刑に処せられたのである。84.p
・人間は、当初の動物同然の状態から解放され、また他のもろもろの生物を支配して以来、それらの生物に対して捕食獣として「巨視的寄生」を実践してきた。しかし、同時に、微生物・細菌・ウィルスなど、限りなく小さいもろもろの生体に攻撃されたり悩まされたりしながら、人間自身が「微視的寄生」の餌食となってきたのである.この巨大な闘争こそ、根深いところで人類の本質的歴史をなしているのだろうか。103.p
・1782年のフランスでは、人夫なり農民なりが一日にニないし三リーブル(1キロから1.5キロ)のパンを食べるに至った。「しかし、他に食べるものがあれば、誰もこれほどの量を食べはしない。」/パンが収めたこの大勝利は、小麦がカロリーの高い食物であるのと同程度に、相対的にもっとも安い食べ物でもあるという事情に由来している。1780年頃、小麦の値段は牛・豚・羊の肉の11分の1、鮮魚の65分の1、川魚の9分の1、塩漬け魚の3分の1、卵の6分の1、バター及び食用油の3分の1であった。/「パンの値上がりは...他の食品の体温計であった。」167.p
・小麦・小麦粉・パンの三位一体が、ヨーロッパの歴史に横溢している。都市・国家・商人にとって、また生きるとは「パンにありつく」ことにほかならなかった人達にとって、この三位一体は主要な関心事であった。182.p
・小麦だと一人分の食糧しか得られない土地でも、ジャガイモならたっぷり二人は養えた。それにもまして、戦争の脅威があった。戦争は穀物畑を荒らしたからである。アルザス地方について、ある資料はこう説明している。農民がジャガイモを大切にするのは「それが決して...戦争の掠奪に曝されないから」である、と。軍隊が一夏の間畑に陣を布こうとも、秋の収穫まで台無しにされることはなかった。実際戦争は、そのたびにジャガイモ栽培への刺激となったらしい。...もうひとつ利点があった。この新種の収穫物は、地域によっては十分の一税を掛けられずにすんだ。218.p
・おそらく1350年から1550年に至るまで、ヨーロッパは幸福な個人生活の時代を経験したのであった。黒死病の破局の直後、労働力が手薄になったために、働く者にとっては生活条件が必然的に良好だったのである。実質賃金がその時ほど高かったことは未だかつてなかった。...1520-1540年以前においては、まだあまり人口が多くなかったランドック地方においては、農民も親方職人も白パンを食べていた。中世の「秋」から遠ざかるにつれて、生活の質の低落が始まっていき、そのまま19世紀の正しく半ば迄続いたのである。251.p
・早くも15世紀末期からニューファンドランド沖の棚にいるタラの大規模漁獲が行われたが、これは革命的な出来事であった。これがきっかけとなって、バスク人、フランス人、オランダ人、イギリス人の間で突きのけあいが始まり、強国の漁民が保護の弱い国の漁民を追い払っていった。こうしてスペイン領バスク人は排除され、漁場に近づくことができたのは、イギリス、オランダ、フランスという強力な海軍を有する列国のみとなった。284.p
一見、歴史の大局的流れから見ると、あまりにも瑣末な日常的些事に拘り過ぎていると思われる事柄も、自分の既知の歴史的事実に関連するや、俄に精彩を帯びて来るばかりか、既知の事柄そのものが生き生きと蘇り、新たな生命の息吹を吹き込まれたかの色彩を帯びることさえある。ということは僕自身の歴史的見識に比例して興趣の増す業績とも云えるか。
政党なき時代―天皇制ファシズム論と日米戦争
中村 菊男 / 毎日ワンズ (2009-10) / 1,575円1 users
タグ 歴史 政治 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2010年01月15日 15時51分26秒 2010/01/15
読了:  2010年01月15日
◆さいたま市図書館、10/01/13(1967年発刊の『天皇制ファシズム論』を底本とする再刊本。筆者の基本的見解は「この政治体制は(特に近衛内閣以降の翼賛会運動を中心に考えているようだが、広く満州事変以降と見てもよいか?)その推進力が軍部であったという意味において軍国主義と呼びうるが、権力の一元的集中化が行われず、政治の最高首脳部のリーダーシップが確立されなかったという意味で、ファシズムではなかったといいうる」313.pに代表される。概ね、この見解には同意できる。尤も、そもそも、このような概念的な規定論争にどれほどの意味があるのか、現在では疑問をもっているが。
・戦後、統制派と皇道派の対立が極度に過大評価されているが、事実と相違している。/日本においては、官制上、陸軍と海軍は判然と分かれているし、両者の対立は戦争中しばしば見られた。また、軍政を司る陸軍省と作戦の本拠たる参謀本部との間に対立が見られたこともあった。さらに、中央部と出先の対立があり、上層のものと中堅ないし下層のものとの対立があった。..軍部内で、陸軍、海軍の双方にわたって独裁権力を発揮した軍人は一人も居なかった。55-56.p
・日本の現代史の中核体は、官僚主義であった。この官僚主義の土台の上に反議会主義、反自由主義、民族主義、国家主義というファシズム的イデオロギーをかぶせ、言論・集会・結社の自由の拘束、社会主義ないし労働運動の弾圧というファシズム形態を学び取ったものと思われる。64.p(すなわち本体は官僚主義であって、ファシズムではない。)
戦争責任について、抽象的次元における日本軍の建前は、天皇の統帥下の軍隊になっており、その目例系統に分裂はないはずである。いわゆる「上御一人」に統一いるはずである。しかるに天皇大権の輔弼は国務事項については国務大臣が、統帥事項については帷幄機関がするすることになっているが、その帷幄機関は陸軍と海軍に別れ、陸軍では参謀総長が、海軍では軍令部長がその任に当たっていた。ここですでに分裂があったわけである。91.p
◆第四章満州事変は何故起きたか
・満州事変から日華事変を経て大東亜戦争に至る過程は、「下克上」的現象であった。究明すべきは点はここにある。/戦後、日本の一方的「侵略行為」のみが糾弾されているが、その前に、中国人による反日運動がいかに激しかったかを考慮しなければならない。/政治的指導力の欠如/第一次大戦後の軍備拡張と縮小という相矛盾した傾向/政党政治の退廃/大正デモクラシー、98-101.p
◆第五章日華事変の原因とその発展
・発端となった盧溝橋事件は柳条湖事件のように現地の少数の人々によって計画されたものではない。..現地の偶発的な衝突事件が日華両国に刺激を与えて連鎖反応的に拡大していったものと見られる.」その転機に日本はなぜを打てなかったか。それは近衛首相を中心とする政治のリーダーシップが確立していなかったことに原因がある。近衛の性格、明治憲法の構造的特殊性、当時の下克上の政治情勢などがリーダーシップの確立を妨げていた。170.p
◆第六章大政翼賛会の性格
・近衛の真の狙いは軍部の行動を抑制するために政治力を結集し、国務事項と統帥事項の統一をはかろうとするものであるから、当然摂政・関白的地位のものでなければ出来ないはずのものである。抽象的には天皇によって総覧されている「統帥権」具体的に掌握しようとするわけであるから、それは当然「幕府的存在」になる。ところが、このような「幕府的存在」は憲法の認めるところではない。そこに、近衛の悩みがあった。202.p
・一方、平沼は大政翼賛会を共産主義者の策謀とみた。このような見方をする者は平沼のみならず観念右翼、財界人の中にも、特に多くいた。212.p
大政翼賛会の富田健治の評価、国民的政治力を結集して軍部を圧倒し、もって支那事変を解決に導くという点では完全に失敗した。他方、陸軍や観念右翼の企図したナチス流の一国一党の主張に抗して、彼らの全体主義的独裁の企図を挫折せしめた点に
最大の功績があったのではないか。219.p
◆第七章日米交渉の経過と問題点
三国軍事同盟締結に至る日本側の事情、1.ソ連を牽制し、更に英仏をも対象に企図した、2.陸軍及び右翼団体(国家社会主義的・革新右翼)の親独熱、3.日・独・米・ソによる新秩序体制の幻想、4.近衛の新政治体制運動の台頭と既成政党の解消とともに全体主義的雰囲気に包まれた、5.ノモンハン事件の休戦とともに日ソ関係は好転し、革新右翼の中に英米の旧秩序に対してソ連を新秩序とする見方が台頭、6.南方資源の開発願望、226.p
・日米交渉に臨む日本側の基本的態度に分裂があった。すなわち日米間に戦争があってはならないとする英米宥和派と米国の国力を過小評価し、イギリスの没落を必至と見て、三国同盟によって米国を牽制しようとする枢軸派との対立である。両派の対立を一本にまとめる政治的リーダーシップはなかった。258.p
文明の多系史観―世界史再解釈の試み (中央叢書)
村上 泰亮 / 中央公論社 (1998-07) / - 7 users
タグ 歴史 社会 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2010年01月13日 10時44分14秒 2010/01/13
読了:  2010年01月13日
◆さいたま市図書館、10/01/08
・「歴史研究の単位」を決めるには、何らかの根本的大革新を選び出すことが不可欠、過去の根本的大革新のリストを挙げてみると、生産技術の大革新の系列と社会組織の大革新の二つの時系列が考えられる。
・狩猟採集社会⇒(農業革命を経て)農耕・牧畜社会⇒(産業革命を経て)産業社会
・バンド社会⇒平等型の血縁社会⇒成層化した血縁社会⇒下位に血縁組織を持つ複合社会⇒血縁中心を脱した社会⇒属性中心を脱した社会、64-65.p
・二つの大革新の歴史的時系列は、交錯しあっているだろうことを強調したい。一方の時系列をそのままの形で理論化すれば、そこから単系的な発展論が導かれる。しかし二つの時系列を交錯させ、さらに文明接触という要因を採り入れることによって、多元的な比較文明論の構成を試みる。(「多系史観」の意味合いはここにある!
・「歴史研究の単位」として文明を捉えると、あらゆる種類の歴史上の変化は、論理的に、次の三つに分類される。
すなわち、1.文明創発的革新、2.文明間接触、3.文明内進化、67.p
・人類史上の大革命についての伊東俊太郎の議論、
人類革命/農業革命/都市革命/精神革命/科学革命
◯都市革命説の問題点、
・人口の増加圧によって大河の氾濫原に進出せざるを得なくなったという「挑戦」に対して灌漑技術の開発という「応答」が必要になったために制度化された中央集権的権力が成立したと説明する。
・しかし水利技術は、都市化以前にかなり発達していたし、逆に都市を持つ社会の灌漑技術が飛躍的に進歩したという考古学的な証拠もない。
・一方、灌漑技術を持たない都市化された文明、焼畑農業に依存する中米のマヤ文明、や地中海複合栽培に依存するミノア=ミケーネ文明、南米のアンデス文明などの例を考えると、「灌漑技術の成立が都市革命を生み出した」という説明には無理がある。
・また、ミケーネ文明やマヤ文明には、大規模な宮殿や城塞はあるが、都市というほどの大集落がなかった点から岩村忍の云うように「都市と文明は必然的な関係によって結ばれているものではなかった」と見るのが妥当。
・農業革命が、それまでの社会とははっきり断絶した新社会を作ったのに比べると、「都市革命」的現象には不連続的な性格が比較的弱いように思われる。「都市革命」的現象は、一つの文明の起点というよりも、文明のピーク、血縁的な階層社会の「文明内進化」過程のピークと考えたい。そのピークに続く次の大きな飛躍は、技術的大革新ではなく、文明接触による大文明帝国の建設という形で現れ、それによって農業革命の技術的含意を展開した農業革命前半期の文明が終了する。77-81.p
・農業革命と産業革命と云う二つの「技術的」革新の間には、いくつかの「文化的」革新の可能性を考えられる。中でも重要な社会的変化の候補としては
イ.人類最古の組織原理として「血縁」が挙げられるが、血縁原理はいつまで続いたのか?
ロ.世界各地の「古代宗教」と、それを超える「有史宗教」との区別は何か、移行はいつ始まったか?
ハ.古代帝国と文明大帝国との区別の基準は何か、そもそも区別出来るのか?83.p
・血縁の関係と古代宗教観念とは同じ社会組織原理に属する。この原理は農耕社会段階の前半を断絶なく支配する圧倒的な社会組織上のライトモチーフである。従って血縁と古代宗教を超える決定的大革新は、宗教上の革新でなければならない。それは有史宗教(または世界宗教)であり、有史宗教の有無によって農耕文明は二つに分類され、有史宗教に基づく農耕社会は第二次農耕文明(中国、ヒンズー、ギリシャ・ローマ文明)とみなすべきである。/古代宗教と有史宗教の区別は、ベラーによれば、後者は「ある意味で超越的で」抽象的な宇宙原理または唯一の創造神に基づいて、現世を超える世界を持ち、何らかの点で現世拒否的な要素をもち、神話の束縛を脱している。また「有史宗教はすべて普遍主義的である。人間はもはや、もっぱらどの種族や部族の出身であるか、或いはどの神に仕えているかではなく、むしろ救済されうるものとして定義される。つまりは、初めて人間そのものを把握することが可能になったのである」/(このような大革新の契機は何か?)非常に異質な二つの社会、農耕社会と遊牧社会が接触し交渉し反応したこと、言い換えれば「文明接触」による「文化的」革新が古代宗教から有史宗教への転換の契機となった。すなわち、人類史は技術決定論や生産力決定論では充分に理解できない。90-92.p
長江文明と日本
タグ 歴史 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2010年01月11日 11時01分48秒 2010/01/11
未読: 
◆さいたま市図書館、10/01/11
87年2月出版、最近の長江の稲作文化遺跡の大々的な発掘以前の、いわば長江文明の再認識の黎明期における「長江文明と日本」の関係についての歴史認識を知る手掛になる。
・樺山紘一は「まえがき」に書いている。碩学の中国史家・増井経夫氏が、ポツリと漏らした設問が忘れられない。「江戸時代の日本人が中国というと、空想するのは江南の風景だったらしいのに、明治になると万里の長城になってしまったのはなんだったのだろうか」と。/中国文明像の変化は、日本人ばかりのことではない。リヒトホーフェン、ウィットフォーゲル../この視点移動には、それなりの合理的理由があったはずだ。..その変化の起点と終点は、近代という価値が下した負記号と正記号に、それぞれ正確に対応するから.近代人には、黄河と長城がよく似合う。/けれども、いまかりに近代とやらの秤量価を問わないまでも、負記号をふられた側にも、言い分を述べさせるべきではあるまいか。/照葉樹林の名で呼ばれる生態相と、これに随伴する物質文明が、長江中流域から東方に伸び、ついには日本列島をも覆っていること.伝承説話や神話の基本要素のいくつかが、長江と日本列島とに共有されていること。更には、古代日本国家の形成に、江南世界の政治配置が濃い影を落としていること。/黄河と長江という、対照的な個性を持つ水流は、たしかに特異な双焦点性を産み落としたらしい。中国文明の懐の深さを、くどいほどに強調しながら、意外にも、この双焦点の存在を見逃してきたきらいが著しい。あえて、長江文明の名をかかげることによって、中国認識全般の組み換えが可能となるかもしれぬ。
長江文明の発見―中国古代の謎に迫る (角川選書)
徐 朝龍 / 角川書店 (1998-03) / 1,890円8 users
タグ 歴史 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2009年12月31日 15時32分04秒 2009/12/31
購入:  2009年12月16日 1,890円 所有
読了:  2009年12月31日
・長江下流域のデルタ地帯、少なくとも紀元前5千年前に河姆渡文化、馬家浜文化などの成熟した稲作文化が開花
・紀元前3.5千年頃から稲作文化は一段と成熟し、農業と手工業との分業化を速め、富の蓄積と社会的貧富の格差は拡大した。その結果、崧沢文化をはじめいくつかの中心的共同体は、小地域を超えた社会的統合に向けて動き出し、その結果、「良渚文化」(紀元前3500-2200年)と呼ばれる初期都市文明時代に入った。59.p
・豊かな稲作農業、多彩な食生活、バラエティに富む食器としての土器群、黒色土器と灰色土器、ロクロ成形による大量生産、発達した稲作農業を基盤とした手工業、養蚕、絹、漆、竹文化、玉器、その制作は家庭内創業の段階を越えて、厳重に統括された組織的段階に達していた。64.p
・文字の問題、文字が発見されない、文字の利用に至る過渡的段階、72.p
・突然の崩壊、紀元前2千年末頃、繁栄の頂点で突然崩壊する。大洪水で崩壊したという仮説が有力、一方、この時期は黄河中流域の最初の王朝国家「夏王朝」の誕生前夜に当たることから、文明社会を経験した越系民族とされる良渚文明の難民の一部が黄河中流域に入り、闘争・融合を経て土着文化と合体した結果、「夏文化」という新しい混合文化共同体を生み出したのではないかとする仮説、75.p(この仮説は面白いな!!
稲作漁撈文明―長江文明から弥生文化へ
安田 喜憲 / 雄山閣 (2009-03) / 5,184円2 users
タグ 歴史 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2009年12月29日 17時48分23秒 2009/12/29
読了:  2009年12月29日
◆さいたま市図書館、09/12/24(草原の文明ないし砂漠の文明に対して「森の文明」の提唱は卓見だと思う。しかし家畜の民=畑作牧畜民と森の民=稲作漁撈民との対立拮抗を、現代の「市場原理主義のグローバル経済化の危機」の根底にあるものとして敷衍して捉えるのは、牽強付会の説を成すの感有り、330.p参照)
・モンスーンアジアの長江流域から日本列島にかけては、1.65万年前には、土器を使用するライフスタイルが広く存在した。一方、西アジアでは土器が作られるのはせいぜい1万年前で、普及するのは8千年前、..土器の使用は、食生活に深く関わっている。35.p
・土器の発明は、森の資源に炭水化物を、主たるタンパク質を魚に求める食生活から始まったのである。つまり森の資源と魚を食べることが定住革命と土器革命を生み、土器革命によって始めて粒状のコメを煮たり蒸したりして食べることができる稲作が始まった。38.p
・仙人洞遺跡や玉蟾岩遺跡など、一万年以上前まで稲作の起源が遡る遺跡は、南の森林地帯と北の草原地帯のはざまに位置している。そこは森と草原がモザイク状に入り組んだところにある。66.p
東亜稲作半月弧、中心は長江中流域の湖北省や湖南省であり、東端は長江デルタ、西端は四川盆地煮至る半月形の地帯である。ここは稲作農耕の起源地であり、かつその稲作の発展の上に、6千年前には大渓文化、5.5千年前には屈家嶺文化、5.3年前には良渚文化など中国最古の都市文明を誕生させた地域である。67.p
・城東山遺跡、城壁-6300年前、水田-7000年前、祭壇-6000年前、祭政殿-5300年前、祭場殿-5300年前、焼成れんが-6000年前、113.p
・6300年前以降の気候の寒冷化と夏季モンスーンの弱化が、長江文明の誕生と深く関わっているのではないか。夏季モンスーンの弱化が夏季の降水量の減少をもたらし、気候の乾燥化と湖水位の低下を引き起こした。水位の低下は、水田の可耕地を拡大させ、生産力の増大をもたらした。更に気候の乾燥化は、灌漑水の確保を必要とし、灌漑水のコントロールのために都市や王権が誕生したのではないか。116.p
4200~4000年前頃長江文明は衰退期に入る。(畑作牧畜民の古代文明は乾燥化と塩害によって崩壊する。長江文明の崩壊は、このような自然の収奪と環境破壊ではなく)人口の増加に伴う激しい汚染や病気の蔓延の可能性がある。更に最大の要因は気候変動に伴う民族の移動である。..とりわけ長江文明を崩壊に導いた決定的要因は、気候の寒冷化による北方からの金属製の武器を持った畑作牧畜民の南下であったとみられる。127.p
・3500~3200年前頃、もう一度気候が悪化し、3200年前頃には著しい寒冷期を迎える。この時期に東アジアでは民族移動の嵐が吹き荒れ、中国では北方から周を代表とする畑作牧畜民の侵入があり、春秋戦国の大動乱時代に突入する。この時代にも大量の難民が雲南省や貴州省に移動するとともに、メコン川や紅河さらにイラワジ川を下って、東南アジアへと大移動が起こった。日本列島にソバの栽培や水田稲作が伝播するのがこの時代であることは、気候悪化の影響を受けた人々の民族移動に伴うものと見られる。144.p
抜歯と文字文化、抜歯の風習を持たない中原の畑作牧畜民はいちはやく文字を発明し、黄河文明を創造した。これに対して、長江文明には文字がなかった。少数民族の稲作漁撈民が作り出した長江文明はなぜ文字文化を発達させなかったか。それには抜歯の風習が関わっていたのではないか。抜歯の風習を堅持し、日本列島にボート・ピープルとして漂着した稲作漁撈民を始め、中国大陸で長江文明を発展させた少数民族は文字よりも「言霊」を重視した。それゆえ文字文化を発展させなかった。「言霊」の出る口は聖なる場所であった。その邪気を払うために抜歯を行ったのではないか。お歯黒も同じ意味であろう。151-152.p
・黄河文明は明らかに西方との深い関係の中で発展した文明であり、ヒツジやヤギを飼い、肉を食べ麺類や万頭を食べる畑作牧畜民の文明である。(163)黄河流域は、漢民族につながるモンゴロイドの畑作農耕民と、白色系の牧畜民が出会う文明の接触地帯であった。彼らはプロト・インド・ヨーロッパ語族とでも呼べる牧畜民であった。北方ユーラシアに広がる草原地帯を西から東へと移動して、西アジアや地中海文明の影響を東アジアへともたらした。黄河流域で黄河文明が誕生した背景には、こうした西方ユーラシアからの他文明の影響があったからではないか。..これまで黄河文明は、アワなど雑穀とムギを栽培する農耕に生業の基礎を置いた純粋な農耕文明であると思われてきた。しかし雑穀などの畑作とともに、牧畜が極めて大きな役割を果たす畑作牧畜民が作った文明であったのである。167.p
・地球の気候が寒冷な氷河時代から、後氷期と呼ばれル温暖な時代に大きく移り変わる激動の晩氷期に、縄文時代は始まる。1.65万年前に土器革命をなしとげ、1.5万年前には定住革命を成し遂げていた。この土器革命と定住革命が縄文時代の開始を告げる人類史的事件である。290.p
・文字と金属器は、文明のメルクマールになりうるか?296-300.p
・日本への水田稲作の伝播は、縄文時代晩期の3千年前まで遡る。更に後期の4千年前まで遡る可能性もある。但し後期の稲作は熱帯ジャポニカであり、焼畑のような状態で栽培されたとみなされている。これに対し、温帯ジャポニカを水田で栽培する稲作は、晩期の3千年前に伝播した。更にその伝播経路も、これまで陸路で大陸経由で朝鮮半島を南下する伝播ルートは完全に否定され、いずれの場合も黄海か東シナ海を越える海の伝播ルートが重視されるようになった。305.p
吾妻鏡の謎 (歴史文化ライブラリー)
奥富 敬之 / 吉川弘文館 (2009-07-21) / 1,836円15 users
タグ 歴史 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2009年12月29日 08時12分59秒 2009/12/29
読了:  2009年12月28日
◆さいたま市図書館、09/12/24
・源氏三代に対しては、その欠点・失敗・悪行などを随所で指摘して、読むものに対して源氏将軍に対する批判の目を開かせるような書き方をしているのに反し、得宗家歴代の善政・業績などについては、正面きって堂々たる筆致で書かれていて、読むものに得宗家に対する感謝あるいは共感の念を呼び起こそうと図っている。いずれにしても得宗家の歴代は、『吾妻鏡』では一度も非難されていない。12.p
・『吾妻鏡』が幕府滅亡ではなく、文永三年で終わっている(のは、私の理解によれば)得宗政治は法治主義と合議制とに基づく善政でなければならない。そうでなければ、源氏三代に代わって得宗家が政務をとるようになったことの利点が、説明出来ないからである。ところが歴史の現実は大きく変化していた。文永・弘安の頃の平頼綱から始まって、やがて長崎円喜に続く内管領中心の政治形態が、幕府に現出してきたのである。得宗政治の変質というより、一部には御内人専制と呼ぶ向きもある。15.p
・諸国を流浪していた義経は、時には豪族土豪の領主階級に使用されていた「土民百姓に服仕され」たりしていた。つまり流浪時代の義経が属していた階級は、領主階級の下位の土民百生の、そのまた下位だった。当然、東国武士たちの行動の有り様を知らなかったから、源平合戦では奇抜な戦法をとることができたのだろう。のちの楠木正成の悪党戦法の先駆だったのである。51.p
『吾妻鏡』の一揆の用例(からみると)、幕府御家人は、日本史上で最初の幕府を、自分たち東国の武士たちが結集団結したもの、やや現代的に言えば、”東国武士たちの組合”のようなものと考えていたことになる。そうとすれば「独歩」というのは、”組合からの離脱”、”組合から抜け出る”という意味になる。それは、幕府という組織への背反になるから、当然、御家人社会ではとんでもない悪事だったのである。..従来、鎌倉幕府というものの理解について、頼朝と御家人との間の主従関係に焦点が合わされていて、いわゆる御恩と奉公という観点が主だった。しかし今後は、東国武士たち自身が考えていた「鎌倉幕府」=東国武士たちの一揆という観点からも再検討する必要があるかもしれない。だいたい「御恩」「奉公」「忠義」などという語は『吾妻鏡』にはない。99.p
・記事脱漏年の問題、頼朝生涯最後の三年間の空白(様々云われているが、いずれも憶測の域をでない)192-204.p
イスラーム世界の二千年―文明の十字路 中東全史
バーナード ルイス / 草思社 (2001-07) / 4,968円8 users
タグ 歴史 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2009年12月21日 08時45分36秒 2009/12/21
読了:  2009年12月20日
・イスラーム教は征服によって広められたといわれることがある。イスラーム教の普及を可能にしたのは、かなりの程度まで征服と植民地化が並行して進められた結果だとはいえ、そうした言い方は間違っている。・・征服者たちの初期の世代は、アラブ人と非アラブ人との間には、たとえ後者がイスラーム教を信じ、アラビア語を話すようになっていても、厳然とした社会的境界線を設けていた。..アラブ帝国の真の驚異は、実際に行われた軍事的征服そのものよりもむしろ、征服した地域の人々のアラブ化とイスラーム化である.アラブ人が政治的にも軍事的にも優位性を保っていた期間は非常に短く、まもなくアラブ人は帝国支配と、自分たちが生み出した文明の主導権さえも他者に譲り渡さざるを得なくなる。92-93.p
・694年、アブド・アルマリクは新しいカリフ国通貨を発行した.これは非常に大きな影響力を持つ重要な出来事だった。それまで、金貨の鋳造はローマ帝国皇帝から受け継いだビザンツ帝国の特権で(この「特権」の意味は何なのか?帝国の権威に敢えて挑戦するものが居なかったという意味か、単に技術的能力または必要性がなかったということか)、世界中にそれ以外の金貨は存在していなかった。アラブ人がこれまで鋳造してきたのは銀貨だった。107.p
アッバース朝、747年、ペルシャ人の解放奴隷で過激派のリーダーだったアブー・ムスリムは、イラン東部のホラーサーン州で蜂起の黒旗を翻した。..カリフ位がウマイヤ朝からアッバース朝に取って代わられたことは、単なる王朝の交代ではなかった。それは一種の革命だった。117-118.p
・政府の要職の大半はアラブ人で占められ、アラビア語は政治と文化の唯一の公用語として残り、アラブ人の土地の税制的優遇は続いた。社会的にも、少なくともアラブ人優位の原則は変わらなかった。アラブ人は、実際の権力を失ったのではなく、権力による利権を主として混血の身内である他者と分かち合わざるを得なくなったのである。ウマイヤ朝時代には、両親ともにアラブ人の家系のものしか国家の要職に就けなかった.アッバース朝になると、混血アラブ人ばかりではなく、ペルシャ人やその他の民族出身者でも、カリフの宮廷で出世できるようになった。119.p
大草原民族の到来、モンゴル人による征服の影響、とりわけ彼らが及ぼした被害の範囲と大きさもまた、誇張されている。一時期、モンゴル人による破壊は、古いイスラーム文明を衰退させ、その後の中東における経済、社会、文化、政治的欠点のすべてがそのせいにされた。..今では、モンゴル人の征服による破壊的な影響は、かつて考えられたほど大きくもなければ、長期にわたるものでもなく、範囲もそれほど広くなかったことが認められている。..征服当初の衝撃が緩和されると、モンゴル人の族長たちはイランに政治的には比較的安定した一時期を与え、都市生活、産業、交易の再興を奨励し、彼らが役に立つと考えた学問や、1295年にイスラームに改宗してからはイスラーム文学や知識の習得も促進した。..ある意味ではモンゴル人による征服は、停滞していた中東文明に、事実上、新生活を吹き込む役割を果たした。147-148.p
異なった文明の接触がうんだ成果の好例は、ラシード・アッディーンによる『集史』である。彼が集めた協力者のなかには、数名のペルシャ人学者のほか二人の中国人学者、カシミールから来た仏教徒の隠者、モンゴル人の部族伝統の専門家、西方からはフランク族の修道士がいて、彼らの助けを借りて、イギリスから中国にまで及ぶ世界史を執筆した。149.p
レパント海戦、レパント海戦は、ヨーロッパの全キリスト教徒の間では大勝利として祝われた。しかし、それはアジア海域におけるオスマン帝国艦隊の敗北と崩壊に比べると大して重要ではなかった。まもなくオスマン帝国は地中海で海軍力を復活させ、彼らのヨーロッパの占領地を攻撃から守ることができた。172.p
・17世紀は、対等関係の不承不承の譲歩で始まり、決定的な敗北を認めて終わった。ムスリムとキリスト教徒の世界の政治的・軍事的勢力の均衡は少しずつ変化していき、その教訓が認識され、生かされるまでにしばらく時間がかかった。経済的な格差はもっと表面化しにくかったが、こちらの方が影響は深刻でしかも重要だった。大陸発見航海の後、ヨーロッパの商業、ひいては権力の中心は、地中海から大西洋に、ヨーロッパの中部と南部から西の海洋国家に移った。178.p
・15世紀から16世紀にかけて、レーニンの言葉を借りれば、「逃亡することによって異議申立ての意思を表明する」亡命者の移動は、西から東へ移ってきたのであって、我々の時代のように東から西へではなかった。1492年にスペインを追われたユダヤ人がトルコに逃げ込んだことはよく知られているが、決して珍しい現象ではなかった。ユダヤ人と同様、自国の主流派の教会によって迫害を受けた宗派の違うキリスト教徒の亡命者グループも、オスマン帝国の領土内に逃げ込んだ。187.p
・オスマン帝国の制度では、知行は基本的には徴税請負権で、少なくとも理論的には、終身もしくはある限られた期間だけのものであり、権利の所有者が軍務を離れれば没収されることになっていて、相続権も領主としての支配権もなかった。他方、土地の分割や一極集中を防ぐためオスマン帝国の政策により、農民は永代借地人としてその権利を相続できた。その結果、彼らはそれまでのキリスト教徒の支配下にいるときよりも、自分の農地についての自由度が増した。彼らが払う税金の額も以前より少なめに計上され、その集め方も近隣諸国より温情的だった。188.p
ヨーロッパ歴史地図 (タイムズ・アトラス)
タグ 歴史 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2009年12月13日 06時24分23秒 2009/12/13
読了:  2009年12月12日
・個別的な・ないし地域的な歴史地図を見る機会は度々ある。しかし地図を通してヨーロッパ全域の歴史を鳥瞰する体験は、この歴史地図によって初めて経験した。監修者の樺山氏は、「あとがき」に、この地図の楽しみ方として、
二ページ分の見開き図が46枚ある。紀元前900年から、1997年までの46枚はすべて同じ大きさのヨーロッパ地図である。「ひとつのヨーロッパ」の実在と呼んだのはこのためだ。だが、46枚の同じヨーロッパ地図には、一つとして同一の色彩区分はない。いつもヨーロッパは政治的に変動しているから。ためしに46枚を順にたどってみよう。その変動の激しさといったら。(「地図」に現された「ひとつのヨーロッパ」の実在とは、単なる仮想的実在でしかない。現実は「分裂と統合」の絶え間ない繰り返しで、それは地図をパラパラと俯瞰すれば一目瞭然。それの分らぬ樺山氏ではないが「人々が住みなす大陸としてのヨーロッパは、歴史を通して単体として実在した」との指摘の積極的意味が分らぬ。
そのうえで、こんどはひとつの国の誕生と連続と変化と終焉とをたどる。例えば、オスマントルコ帝国を例にとる。1382年の見開きにはじめて登場する。1925年のそれではトルコ共和国にかわる。1997年までの間に24回、地図上に現れる。その領域は地図では常に同じピンクに彩色されているが、拡大と収縮とが時代ごとに継起する様は、一目瞭然である。

と書いている。(09/12/12、さいたま市図書館)
国民国家の形成、一般的には国民国家の始まりは16世紀にさかのぼるが、1530年当時には国民国家が栄えようとはだれも予測しなかったであろう。その頃もっとも繁栄していたのは国民国家ではなく、東のオスマン帝国やカール五世がスペイン、ネーデルランド、ハプスブルグ家領オーストリアなどを併合して築き上げた「普遍的君主国家」などの複合国家であった。また、帝国都市の勢いも盛んで、神聖ローマ帝国を形成する多数の国々には、ヨーロッパの中でも特に裕福な国がいくつもあった。一方、フランスやスペインなどの西の王国は、長く続いた戦争と内紛のため自国の経済状態が悪化していた。112.p
大河文明の誕生 (長江文明の探求)
安田 喜憲 / 角川書店 (2000-03) / 23,195円2 users
タグ 歴史 カテゴリ:本・雑誌 本・雑誌 / 歴史・地理 更新日:2009年12月12日 06時20分10秒 2009/12/12
読了:  2009年12月11日
従来の文明史観に革命的なパラダイム転換をもたらす可能性を予見させる画期的な論述だ。ポイントは、乾燥・草原地帯から発祥した麦類・家畜を主軸にした文明一元論に対して稲作文明を主軸とする「森の文明」を提唱することで文明多元説を対置させる。トインビーは、『歴史の研究』において文明の発生を、「挑戦に対する応戦」という概念のもとに捉え、黄河流域に文明が発生しながら、なぜ長江流域には文明が発生しなかったかを論じて、黄河流域に比較して後者の温和な・比較的恵まれた自然環境を指摘した(第二巻参照)。黄河文明よりも遡る長江文明の発見は、直接的にはトインビーの仮説を否定しているかに見えるが、仮に5700年前の気候変動に伴う寒冷化・干ばつが長江文明の契機になったとすれば、より深い意味では「挑戦と応戦」という仮説は、新たな支援材料を得たことになる。(09/12/10、さいたま市図書館)
文明誕生多元説、気候温暖期は5700年前頃におわり、北緯35度以南の北半球の温帯亜熱帯の地方は、乾燥化が進行した。この気候の乾燥化によって、大河のほとりに人々が水を求めて集中した。もともと大河のほとりには農耕民が生活していた。乾燥化を契機として大河のほとりに人口が集中し、牧畜民と農耕民の文化の融合がきっかけになって古代文明が誕生したのではないかという仮説を提示した。25-26.p
・5700-4500年前の気候変動期において、類似した気候の寒冷化と乾燥化が進行した北緯35度以南の大河中・下流域では、多元的にどこでも文明誕生の契機があったはずであるというのが私の古代文明誕生多元説なのである。26.p
・気候の乾燥化によって、乾燥アジアから水を求め、食料を求めて、豊かな農耕民の富を求めて、牧畜民が大河のほとりになだれ込んできた。この5700年前の気候変動を契機とする牧畜民の侵入と略奪、牧畜民と農耕民の接触の増大、ついには牧畜民の定着化によってもたらされる異文化の接触と融合が、都市文明誕生の契機となった。40.p
・人類が何を食べるかということは、文明の誕生と発展に大きくかかわっている。佐々木高明氏は、世界の民族の主原料の獲得と利用の方式を大きく五つに分類区分している。1.採集・狩猟・漁撈型、2.牧畜=乳製品型、3.麦類=乳製品・肉類型、4.雑穀=汁類型、5.根栽作物卓越型である(参照『地域と農耕と文化』)。これまでの考古学者や文明史家は、古代文明と呼びうるものを誕生させたのは、3の食事体系をもつパンを食べる民族のみであったとみなしてきた。52.p
・三万年前の後期旧石器時代の開幕は、旧石器時代文化のビッグバンといってよい。それは石刃技法の登場で示され、この技法によって、類似した石刃を連続して大量生産することができるようになった。石器の大量生産の開始は、現代型新人が一つの観念を計画的に長く持ち続け、その目的を達成する能力を獲得したことを物語る。石器の大量生産という技術革新には、大型哺乳動物の計画的な大量殺戮を可能にした。...それが現代型新人に余剰と富への欲望を覚醒させたのではあるまいか。72.p
・人類が最初に麦作農耕を開始したのは、西アジアの「肥沃な三日月地帯」である。二万年ほどまえの西アジア一帯には、アカザ科やヨモギ属の広大な草原が広がっていた。その草原に生息するバイソンや馬などの大型哺乳動物を狩りして生活していた。ところが16500年前頃から、氷河時代が終わりに近づき、温暖化と湿潤化が始まった。81.p、気候の温暖化・湿潤化と森の拡大は、草原にすむ大型哺乳動物の生息環境を悪化させた。これに拍車をかけ決定的ダメージを与え絶滅に導いたのが人類の乱獲だった。これによって旧石器時代人は食糧危機に直面した。この危機を救ったのが、14500年前頃から急速に拡大していた森だった。人類は大型哺乳動物のいなくなった草原を捨てて、森の中の定住生活を始めた。人類が農耕生活を開始する前に、まず森の中での定住生活の開始が必要だった(参照、西田正規『定住革命』)。
・12800年前頃、ヤンガー・ドリアスと呼ばれる突然の寒の戻り引き起こされた。これによって約千年の間、再び氷河時代に逆戻りした。気候の寒冷化は森を直撃した。再び食糧危機に直面した。85.p、人類は再び草原に出て、新たな食糧となる野生オオムギや野生コムギを発見する。そのとき、森の中での千年以上培った植物資源を利用する技術が役立った。もし森の植物資源を利用する技術をマスターしていなければ、ヤンガー・ドリアスの寒冷期に人類は農耕を開始することはなかったであろう。87.p
・森の狩人だった現代型新人モンゴロイドが、いち早く土器づくりを開始し、定住生活に入った。土器を作るには森の土壌と、土器を焼く燃料としての木、そして土をこねる水が必要である。乾燥した草原ではなく、湿った森の中で土器が誕生した。土器はドングリなどの堅実類やヤマイモなどの根菜類と、魚貝類を煮炊きする道具として開発された可能性が高い。94.p
・チャイルドの新石器革命説と異なり、東洋では農耕の起源よりも土器の起源のほうが先行している。これまでのところ、長江流域での稲作の証拠は、15000年前が最古であるのにたいして、土器の起源はさらに三千年以上も古い。..12800年頃に引き起こされた西洋の麦作農耕の誕生とそれに続く土器の発明は、人類史全体の中では西洋の乾燥した麦作農耕地帯での一挿話にすぎない。102-103.p
・人類は長らく森の中に文明は存在しない、森は文明の敵だと思っていた。キリスト教の世界観の影響のもとに育成された近代歴史学のもとでも、森は未開・野蛮と同義だった。(しかし)長江文明を誕生させた風土は、西日本にまでつながる照葉樹林だ。237.p
・長江流域の生業の基盤は稲作である。5700年前の気候の寒冷化は南西モンスーンの弱化を引き起こし、干ばつをもたらした。メソポタミア低地のようにその気候変動が作物の栽培条件に適した条件をもたらしていない。では、いかなる気候条件が都市文明誕生の契機となったのか。現時点では推測の域を出ないが、5700年前の寒冷化とそれに伴って引き起こされる南西モンスーンの弱化は、干ばつを多発させ、人々はこの干ばつの危機に対処するため集団で水利灌漑の維持の必要性に迫られた。...さらに気候の乾燥化と寒冷化による海面の低下によって、長江下流域において「肥沃な三角州地帯」が出現し、これが耕作地を提供した。さらに気候の寒冷化によって北方の内モンゴル自治区から遼寧省を中心として発展した紅山文化などが崩壊しており、明らかにこの時代に民族の南下が認められる。275.p

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