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カテゴリ 読書 購入 所有 お気に入り 1 - 6件目 / 6件
陳 舜臣/ 平凡社 (1980-11) / 1,728円4 users
所有 読了:  2012年03月24日
・再読、史記と併せ読む。
夏王朝について、Wikiには「夏(か、紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)は、中国最古と伝承される王朝」とある。
・夏王朝は、実在も非実在も証明されてないけれど、実在したとすれば時期的には「竜山文化が夏王朝の時代に当たる」云々(92)。竜山文化はWikiによると「龍山文化(りゅうざんぶんか、龙山文化、拼音: Lóngshān wénhuà : ロンシャン・ウェンフア, 紀元前3000年頃-紀元前2000年頃)は、中国北部(華北)の黄河中流から下流にかけて広がる新石器時代後期の文化である。黒陶が発達したことから黒陶文化ともいう」
シルクロード糸綢之路 第5巻 天山南路の旅
陳 舜臣 , NHK取材班 / NHK出版 (1981-01) / 2,484円5 users
購入:   2,415円 所有
読了:  2009年11月02日
・高昌国、漢族王朝だが背後の柔然、高車など遊牧民のカイライ国家(松田「アジアの歴史」には、漢代にターリム盆地や東部天山地区に武力進出し、屯田兵の駐在や移民の投入・流入策が盛んに進められ、その末裔が天山山脈の東部南麓に根を下ろし、やがてトルファン地区に高昌国という植民国家を出現させた。とある。500年頃~640年頃。139)(漢族の植民国家と見るか、遊牧民のカイライ国家と見るか、いずれ強国の狭間に生息する弱小国家の生き様を象徴している。)
・高昌国と玄奘、38-45
・玉門間から伊呉・高昌を通過する伊呉の道に対して、敦煌・楼蘭を通過する旧道を復活する問題をめぐって周辺国と争い(49頁地図参照)、やがて唐の問責を受けるが、これを無視。唐は高昌を攻め、唐の一州として西州と名づけ、西域計略の安西都護府を交河域に設置した。45-62
・唐の全盛時代は安史の乱で終わり、その後、天山南路は吐蕃、ついでウィグル族の勢力下に入った。ウィグル族が、この地域の支配者になったのは九世紀半ば、キルギス族に追われ、大挙して移動してきた。その結果、民族も宗教も変わった。イラン系からトルコ系に、仏教からイスラム教に。71-77
陳 舜臣/ 平凡社 (1981-12) / 1,728円3 users
購入:   2円 所有
読中: 
・太平天国戦争の長沙攻防戦のエピソード(俯瞰することの意味)、3
・南北を統一した隋もその後継者の唐も、北方系の王朝で、皇室も鮮卑系の可能性があったけれど、漢王朝の看板を掲げた。彼らは漢族部隊の府兵を背景にして覇業を成し遂げたので、その手に入れたものを維持するためにも、府兵の絶対的な支持を必要とした。更に北には南の文化に対する強い憧れがあり、南北を統一したあと、新領土の南をしっかりと掌握するためにも、漢族正統政権であることを強くうち出す必要があったのではないか。11
陳 舜臣/ 平凡社 (1981-09) / 1,728円3 users
購入:   0円 所有
読了:  2009年10月26日
・前漢平帝元始二年(西暦2年)の人口5959万人余(「漢書」・地理志)、王莽末期の戦乱の結果人口は激減、後漢光武帝の死んだ建武中元二年(西暦57年)に2100万人余、質帝の死んだ本初元年(146年)に4756万人に回復、百数十年後の三国時代には再び8百万そこそこに、22
・後漢が滅んだのが220年、分裂はそれ以前、董卓が洛陽を破壊して、長安遷都を強行したとき(190年)、またはその前の黄巾の乱(184年)から分裂は始まっていた。それから約四百年、隋の文帝が南北を統一する589年まで「分裂の時代」が続く。前漢・後漢を併せて約四百年の統一時代があり、ほぼ同じ期間、分裂の時代が続く。50
・(分裂の要因)人口の激減、北方の民族の大移動(匈奴)、52(松田寿男「アジアの歴史」では、第5章「中国の北と南」で「分裂」の背景を、次のように指摘している。「漢帝国の末期から中国は分裂の傾向が強まる。そして結局は南北朝の対峙を生む。ところが、このような中国の政治的二分は、単なる政権の対立だけではなく、華北と華南とのそれぞれに異質な風土の上に展開された、異質な社会・文化の発達であった」50、更に次の指摘も注目。「中国が政治的に分裂する場合には、必ず秦嶺=淮河線が基本とされた。中国に見られる北・南の差は、ただ地理的だけでなく、歴史的でもあった」53))
・中国の古代の史書には人種的特徴の記述が皆無、53
シベリア南部、エニセイ川上流のアバカン市付近から中国風のオンドルをもつ漢代の宮殿跡が発掘される(1940年)、匈奴の領域、青銅製把手の遺物、68
・四世紀から五世紀にかけて、様々な顔をした民族が中国の歴史に登場する。それは、やがて水平線上に姿を見せる、中国の世界帝国のための前奏曲であったといえる。69
・三国時代、江南が開発され、そこは水のたっぷりある土地だという噂は、中原にも伝わった。中原の農民にとって、南方は幻の楽土だった。江南目指して、流民が移動した。中原の農業は灌漑に頼る部分が多く、灌漑水路はたえず手入れをしなければならない。人で不足でそれが出来なくなると、耕地はそれだけで減少する。86、89
・(匈奴の)劉渕が皇帝を称して(大漢皇帝、308年)から約130年間、華北には塞外民族の政権が次々と登場する。この時代は「五胡十六国」、最近では「東晋十六国」といわれる。
・(中国の史書では)五胡は、匈奴、羯、鮮卑、氐、羌とされている。羯は匈奴の一支族、氐と羌はチベット系、鮮卑は「後漢書」には東胡の支族で、鮮卑山に拠ったので、そう呼ばれたととあるが、諸説ある。92
・三国以来、江南の地には六つの王朝(呉、東晋、宋、斎、梁、陳)が興亡した。孫権が帝を称した229年から陳が滅亡した589年までの360年間を「六朝時代」と呼ぶ。139
・南方の王朝の簒奪は、軍閥が登場し、それが王朝の力をしのぐというパターンの繰り返し、162
東晋・前秦・前燕鼎立時代図(350-370年頃)、169(&「世界史地図」15頁、「東アジア諸民族の活躍」を参照)
淝水の戦い(383年)、173(「世界史地図」15頁も参照)(この戦いで、前秦は富士川の合戦の平維盛の大敗に匹敵する敗北を喫する)
・前秦の内部にも反対は多かったが、敢えてそれを押し切って苻堅が東晋遠征に踏み切った背景には、彼の理想主義があったのではないか。遠征軍の編成にも諸族連合という彼の理想が反映されていた。177
・前秦の名臣王蒙(漢族)は、淝水の戦いの戦いの八年前に死んでいるが、苻堅に、次のように遺言した。175
東晋は江南に僻処すと雖も、然も正朔相承け、上下安和す。臣歿するの後、願わくば晋を以って図りと為る勿れ。
鮮卑、西羌は我の仇敵にして、終には人の患いと為らん。宜しく漸く之を除き、以って社稷に便せよ。

・亀玆、おそらく当時の住民は人種的にはインドやイランよりもギリシャ、ラテン系に近かったと推測される。九世紀半ばに、シルクロードに民族大移動があり、トルコ系のウィグル族が主流を占めるようになるが、それ以前はアーリア系の民族が多かった。187

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