ホーム   本・雑誌   Web   洋書   音楽 ウォッチ  プロフィール  メディア記録  印刷  RSSフィード
sunjin_fuuraiのバインダー
並べ替え:
カテゴリ 読書 購入 所有 お気に入り 241 - 270件目 / 445件
購入:  2009年08月05日 150円 所有
糖尿病合併症といえば、昔は、微小血管障害がもっぱら注目されてきた。血管内の過剰な糖によって微細血管の集合している場所に障害が特に発生しやすく、網膜症、腎症、神経症などが三大合併症と云われてきた。最近になって、糖尿病のかなり初期段階、または糖尿病の発症する十数年以上も前の段階、正常と糖尿病との境界域にある時期から大動脈血管の障害による虚血性心疾患や脳血管障害の危険性が高まっているのではないかと考えられている。僕自身、一昨年、ふとしたきっかけで心臓に痛みを感じ、その時は急激な痛みは10分程度で収まったが、大事をとって二日ほど休息、その後は普段通りの百姓仕事に戻った。去年、健康診断で糖尿病との指摘を受け、併せて心電図の異常や心エコー検査から一昨年の心臓の痛みは虚血性心疾患(軽い心筋梗塞と、自分では判断)によるものと指摘された。そんなわけで糖尿病と動脈硬化の関係に殊のほか関心を持っており、「グリケーション仮説」とともに購入・登録。
アテローム性動脈硬化性合併症は糖尿病の病因・死因の最たるものである。この現象を理解するには、リポ蛋白異常がアテローム硬化過程の中心的な役割を果たしているので、リポ蛋白の構造と代謝を理解することが重要である。3.p⇒参照:動脈硬化理解のためのリポ蛋白代謝
- 1 users
タグ 医学 カテゴリ:Web Web 更新日:2010年01月02日 14時12分58秒 2010/01/02
読了:  2010年01月01日
・糖尿病患者では血管組織で活性酸素の産生が亢進,LDLが酸化されやすい状況にある。
・虚血性心疾患を合併した糖尿病症例と,虚血性心疾患を合併していない糖尿病症例の血漿中酸化LDL値を比較したところ,糖尿病のある不安定狭心症群においては,糖尿病のある安定狭心症群,および虚血性心疾患のない糖尿病群に比して,有意に血漿中酸化LDL値が高値であった。また,その酸化LDL値はHbA1cと相関していた。
・酸化ストレスの亢進により、酸化LDLの生成が増大する。
・酸化LDLは,血管内皮細胞の傷害や炎症性細胞の集積等を介して,ヒト冠動脈プラークの発症・進展のみならず,プラーク不安定化にも関与すると想定されている。
◆いくつかの疑問点、
糖尿病そのものが、LDLColを上昇させる要因になりうるのか、『糖尿病学』3-44、「糖尿病のみの影響では、LDLコレステロールは軽度にしか上昇しないとされるが、臨床では原発性高脂血症を合併している例も多いこと、また冠動脈疾患の危険より、糖尿病患者ではLDLColの治療目標が低く設定されていることを考慮しても...」644.p(直接的要因とはならぬまでも、高脂血症その他の要因との複合的作用を考慮すると、相関関係は極めて高い、とみなして良いか。
・『糖尿病学』6-22「合併症における脂質代謝異常」には「糖尿病では、インスリンの作用不足により、小腸でコレステロールの過剰生産が起こりこの場合のコレステロールとLDLとの関係は?)、食事由来の脂肪を運搬するカイロミクロンが過剰に存在することになるのと同時に、血中に過剰に存在するブドウ糖と遊離脂肪酸を利用してトリグリセリドが肝臓で過剰に合成され、VLDLの過剰分泌が起こり、血中トリグリセリド値の上昇に貢献する。」(LDLとVLDLの関係は?
購入:  2009年10月16日 0円 所有
読了:  2010年01月02日
・(レーニン・トロツキーとの対照性)レーニン、トロツキーは革命を予見し、革命達成まで数十年間、その準備に努めた。彼ら自身の構想は1917年の刈入れまでを目指してロシアの大地を潤した。だが、スターリンの場合は事情が異なる。第二次革命の構想は彼のものではなかった。彼はこれを予見もしなければ準備もしなかった。しかも、これを達成したのは彼であり、ある意味では彼一人の事業であった。初め、彼は当面の危機の振りあげる鞭に追われるかのようにして、この遠大な事業に足を踏み入れた。彼は不安を抱え、手探りで始めた。だが、やがて自分自身の行動の勢いに駆られた彼は、殆ど立ち止まることもなしに巨人の道を歩み続けた。彼の後ろには、一国社会主義を求める一世代全部のロシア人が、血のにじむ疲れた足引きずりながらついていった。スターリンの姿は神話的偉大さまでに広がるように見えた。だがそばによって見れば、考えは平凡でごく当たり前の大きさの人の姿であった。2
・彼は革命後の社会に現れた、すべての反抗的な思想と主義を抑圧する中庸主義的独裁の権化であった。3
・1925年初めに、ジノヴィエフ、カーメネフとの三人組を解消し、新たにブハーリン、ルイコフ、トムスキーとの協力関係を築き始め、この体制は25年後半に完了した。4
◆集団化政策
・28年1月、政府が農民から買い上げた穀類は都市生活者の最小限の消費高より200万トンも不足した。スターリンは政府に穀類を引き渡さない「クラークはソヴェト経済政策を撹乱している」と言明したが、これは少し前までの彼のあらゆる言明と矛盾していた。6月、新しい緊急措置が発表された.7月、スターリンは党に「クラークを強く叩く」よう呼びかけた。地方のボリシェヴィキはこうした命令に快く従えなかった。過去三年間、彼らに対して農民との同盟の重要性を痛感させる努力が行われてきた。また、農奴への敵意は異端的トロツキー主義の特徴だと教えられてきた。15.p(こうした最中でさえ、他方では「富農の収奪は愚行である」と主張していた。)28年末に承認された第一次五カ年計画は33年までにせいぜい全農家の20%を集団化することを規定した。
・それから数カ月後には全面的集団化が全スピードで進められた.個人経営は死滅を宣告された。20.p
・自作農2500万人のうちもっとも困窮した階級に属していたものがどのくらいであったか正確には知られていない。500万ないし800万といわれている。少なくとも500万の零細な農地は木の鋤で耕されていた。これと反対の側に150万か200万人の富農があり、中間には1500万から1800万人の中農がが存在した。しtがって、大改革を心から歓迎することは間違いないと見られたものはかなりの数とはいえ、農民全体から見ると少数に過ぎなかった。
・1929年中頃、はじめ定めた限界を越えて、集団化を推進し始めた。数千人の活動分子を農村に派遣し、階級としての富農を清算ししりごむ多数の中農を集団農場に追い込むよう指令した。
・短期間のうちに、ロシア農村地帯は地獄と化した。農民の圧倒的多数は必死の反抗で政府と対決した。集団化運動は軍事作戦、残酷な内戦に変質した。23.p
・(暴力的集団化の結果は、34年1月にその一部が公表された)29年に3400万頭いた馬が、33年には1660万頭に、牛は全体の45%に当たる3000万頭、羊と山羊は全体の三分の二に相当する1億頭近くが殺された。広大な土地が、未耕のまま放置された。24.p
・(30年春になると)スターリンは、集団化促進運動に強力なブレーキをかけた。次の三年間には、全農家の10%がさらに集団化されただけだった。こうして、五カ年計画完了までに、全所有地の10分の6が集団化された。集団農場の性格も変わった.最初は、農民の所有物はほとんどすべてが、集団農場のものだと宣言され、その参加員は労働に対して労働者としての賃金を受けるだけであった。30年代初めから中頃にかけての一連のスターリン改革は、農民の個人主義に重要な譲歩を行った.コルホーズは、コンミューンではなく協同組合となった。そこでは、参加員はコルホーズの利益の配分に加わった。また、小さな私有地、家畜の一部、家禽を所有することが認められた。時が経つにつれて、新しい社会的分化が始まった。裕福なコルホーズと貧しいコルホーズが生まれ、コルホーズ内にも格差が生まれた。29.p
◆粛清
34年末、キーロフ暗殺とともに粛清は開始され、39年はじめまで続いた。この粛清によって、革命の第一世代はほとんど抹殺され、その穴を埋めるために登用された第二世代にとっては、粛清そのものが彼らが社会的階梯を登りつめていくための、最も手っ取り早い手段になった。一種の社会的登用システムに組み込まれた感さえある粛清を描く第10章を、ドイッチャーはアナトール・フランスの小説に因んで「神々は渇く」と題している。
砂の文明・石の文明・泥の文明 (PHP新書)
松本 健一 / PHP研究所 (2003-10) / - 23 users
購入:  2010年01月01日 735円 所有
読了:  2010年01月02日
文明と文化
・文化は、基本的には中国にはなかった言葉である。全て文明で統一していた。35.p
・文化という言葉は、日本でも明治時代に作られた言葉だから、非常に新しい。明治の初期に西洋文明と統括的な形で入ってきたものが、実はそれぞれの国の固有なイギリス文化、フランス文化、或いはドイツ文化であると理解され、次第に普遍的な文明とは次元を異にする文化・文学のレベルで受け取られるようになった。41.p
・「文化」は、それぞれの民族が固有に持っている個性的な暮らし方であり、伝統であり、風習にほかならない。普遍的な文明からすれば野蛮人のように見えるかもしれないが、それぞれの風土にのっとった暮らし方、それぞれの暮らし方から編み出される個人と共同体の守り方、それゆえ価値観といったものに従った形がある。51.p
・文明の摩擦や衝突は起こりえない。それが起こるのは文化の部分である。なぜなら、自分たちのアイデンティティを文化に求め、それを守るためにたたかうという、いわば文化に殉じるというのが、世界全体の人間の精神構造になっているからだ。文化や宗教が価値観を決定するから、死生観もそこで決まってくる。しかし、文明に殉じて死ぬ人はいない。59.p
・石の文明、自然の改造及び外に向かっての進出する力を本質とする。95.p
・泥の文明、農耕文明としてのアジアは(「石の文明」の外に向かって進出する力に対して)「内に蓄積する力」98.p
・土地に深く根をおろすことが、我々農耕民族の精神形態であるとするなら、砂漠の民は土地に深く根を下ろさず、移動していくことを当然と考える。これは、「砂の風土」が強いる発想に外ならない。103.p
ピーター・リンチの株式投資の法則―全米No.1ファンド・マネジャーの投資哲学
読了:  2010年01月01日
株式市場では、貨幣増殖という資本主義的欲望の真髄が、もっとも剥き出しの形で、純粋に、単純化されて現れている。そこでは、どんなに高邁な理論も・見通しも、単純明解な株価チャートのグラフによって挙証され、あるいは葬り去られる。しかも株式市場では、ある意味では万人が平等であり、例外的な品薄株・小型株などの僅かな株式を除けば、市場の大勢を決するのは無数の集団的な行動の集合であり、あたかもそれは無数の分子がランダムに動き回る結果として織りなすブラウン運動にも喩えられる。10/1/01読了
・成功するか失敗するかは、懸念を無視して、自分の投資をずっと続けられるか否かに掛かっている。株式投資家の運命を決めるものは、頭脳ではなく肝である。如何に優秀であろうと、自分の考えを持たない投資家は、株式市場では生き残れない。20.p(または、ダイエットと株式投資の結果を決めるのは、頭ではなく意志である。40.p)
バックミラーからは未来は見えない。44.p(または、大暴落は大恐慌を伴ったので、私たちは株式市場の崩壊を経済の崩壊に結びつけるようになり、前者が後者を導くと信じ続けている。あまり云われていないが、72年の暴落はほとんど29年と同じくらい厳しかったが、経済の崩壊に至らなかった。49.p)
・自分の保有している株式が50%値下がりすることに耐えられない投資家は株式を保有すべきではない。66.p
・投機が日本の経済に果たす役割は、米国経済に対して果たす役割よりも大きい。93.p
叩き売られた市場では、いたる所で株が割安に放置されている。しかし買われすぎた市場では、買うに値する株を見付けるのは大変である。172.p
確実性の終焉―時間と量子論、二つのパラドクスの解決
読了:  2009年12月31日
◆さいたま市図書館、09/12/26
時間は存在に先行する、多くの科学者にとって、宇宙の起源として「ビッグバン」理論を受け入れることは、時間に始まりと、おそらくは終りがあるということを意味していた。しかし、何故そのようなことがあり得ようか?私にはむしろ、宇宙の誕生とは単にコスモスの歴史上における一つの事象に過ぎないと思われ、従って、我々の宇宙を生ぜしめた媒質、いわゆる「メタ宇宙」には、我々の宇宙よりも更に先行する時間を帰属させねばならないと思われるのである。137.p
・不可逆性は我々の宇宙の誕生と結びついた純粋に宇宙論的な起源を持つと云われてきた。時間の矢が普遍的だという事実の説明のためには、確かに宇宙論は必要である.しかし、不可逆過程は我々の宇宙の誕生とともに終わったわけではなく、今日でも地質学的、生物学的進化を含むあらゆるレベルにおいて存続している.また散逸構造は、実験室内で、或いは生態系内で生じるような大規模過程としては日常的に観察されている。しかし、不可逆性を完全に理解することは、伝統的に古典力学や量子力学と同一視されてきた微視的記述を通じてでなければなされ得ない。今や我々の理解したところでは、このことはもはや「確実性」にではなく「可能性」に基づいた自然法則の新しい定式化を要求する。今や中心的役割を果すのは確率である.未来は決定されていない、ということを受け入れることによって、我々は確実性の終焉を迎えたのだ。154.p
・単純な動力学系を取り出して、古典力学や量子力学の法則を立証することができるのは事実である。にもかかわらず、そのような法則は安定な動力学系だけに適用可能な単純化、理想化に対応しているのである。(無限概念を理解するためにも、我々は有限概念を媒介にする他はない、という事実に照らしてみても、これは明白な事実のように僕には思われる。)宇宙は今日においても平衡から遠く隔てられた巨大な熱力学系なのである。あらゆるレベルにおいて、ゆらぎ、不安定性、進化発展するパターンが見いだされる。155.p
- 1 users
タグ 医学 カテゴリ:Web Web 更新日:2009年12月31日 16時47分08秒 2009/12/31
読了:  2009年12月31日
糖尿病状態でのポリオール代謝経路ないしアルドース還元酵素を介した代謝経路の亢進による合併症に関しては『糖尿病学』6-8、合併症におけるポリオール経路(1148-1152.p)をあわせて参照せよ
糖尿病状態のポリオール代謝の活性亢進、細胞内に取り込まれたグルコースは、解糖系の最初の律速酵素であるヘキソキナーゼに親和性が強く、通常グルコースー6-燐酸へと転換され、ポリオール代謝を介して利用されるグルコースはわずか三%に過ぎない。しかし、糖尿病で高血糖状態になると、ヘキソキナーゼによるグルコース利用が限界に達し、AR(アルドース還元酵素)が活性化されて、ポリオール代謝経路を介するグルコース利用が正常の四倍にもなり、ソルビトール産生が増え、細胞内蓄積をきたすことになる。
糖尿病と動脈硬化 (糖尿病カレントライブラリー)
柏木 厚典 / 文光堂 (2005-05) / 7,350円1 users
読了:  2009年12月28日
◆さいたま市図書館、09/12/25
◆糖尿病性血管病変の病理
・糖尿病性合併症の基本は血管障害であり、通常、細小血管障害と大血管障害に分類される。..後者には虚血性心疾患、脳梗塞、閉塞性動脈硬化症が該当する。38.p
・高血糖におけるポリオール代謝経路の亢進やAGEの形成亢進は、活性酸素の亢進をもたらすほか、活性酸素消去系の活性低下を惹き起こすことが明らかにされており、その結果、糖尿病状態では生体内の酸化ストレスが著しく増加しているとみなされる。..LDLも酸化されやすい状況にある。
・酸化LDLは、血中単球の血管壁への流入、マクロファージの血管壁内での集積や泡沫化の促進、血管内皮細胞や血管平滑筋細胞の細胞障害、Tリンパ球の活性化などを介して、動脈硬化の進展に重要な役割をになっている。40.p

◆食後高血糖、酸化ストレスと動脈硬化
・(メカニズムは不明だが)持続高血糖よりも血糖変動が内皮細胞内の酸化ストレスを亢進させ、単球の内皮への接着を亢進させている可能性が高い。更に我々のデータは血糖変動が加わることで単球の内皮接着を更に亢進させることを示唆する。
・IGT(耐糖能障害)や食後高血糖のみ示す患者で、すでに動脈硬化性疾患の発症リスクが高いことが知られている。実際に動脈硬化性疾患の発症リスクとしては、食後高血糖に付随するメタボリックシンドロームが関与することはほぼ間違いないと考えられるが、血糖値の変動も動脈硬化促進因子として働く。49.p
◆血管内皮細胞機能異常
◆アディポサイトカインと動脈硬化
◆メタボリックドミノ
・生活習慣病の重積は心血管病のリスクを高めるが、生活習慣病が同一患者に同時に発症することはなく、その人の一生の中で時系列に発症する。そこで、危険因子となる疾病がどのような順序で、どの時期に発症してくるかが問題となる。この問題をダイナミックに捉えたのがメタボリックドミノの概念である。
・糖尿病患者の心血管系疾患の発症率は血圧が低くなるほど低下し、80以下を降圧目標にした群は85~90の群に比べて49%低下した。75.p
・最近の微量アルブミン尿が心血管イベントのリスクファクターになることが知られるようになったが、これは糖尿病でミクロアンジオパチーが出現する段階ではすでにマクロアンジオパチーが相当進行しているという事実の裏返しであると考えられる。77.p
◆止血血栓系異常
・Ⅰ型Ⅱ型を問わず糖尿病患者は、活性化血小板は循環血中に増加しており、これらはごく早期から観察され、かつ血糖コントロールの良し悪しに左右されない。..また血小板の回転も亢進しており、その反映として大型サイズで、反応性に富む血小板が増加しており、これが糖尿病の血管症や血栓塞栓症の発症に深く関わっている可能性が指摘されている。94.p
長江文明の発見―中国古代の謎に迫る (角川選書)
徐 朝龍 / 角川書店 (1998-03) / 1,890円8 users
購入:  2009年12月16日 1,890円 所有
読了:  2009年12月31日
・長江下流域のデルタ地帯、少なくとも紀元前5千年前に河姆渡文化、馬家浜文化などの成熟した稲作文化が開花
・紀元前3.5千年頃から稲作文化は一段と成熟し、農業と手工業との分業化を速め、富の蓄積と社会的貧富の格差は拡大した。その結果、崧沢文化をはじめいくつかの中心的共同体は、小地域を超えた社会的統合に向けて動き出し、その結果、「良渚文化」(紀元前3500-2200年)と呼ばれる初期都市文明時代に入った。59.p
・豊かな稲作農業、多彩な食生活、バラエティに富む食器としての土器群、黒色土器と灰色土器、ロクロ成形による大量生産、発達した稲作農業を基盤とした手工業、養蚕、絹、漆、竹文化、玉器、その制作は家庭内創業の段階を越えて、厳重に統括された組織的段階に達していた。64.p
・文字の問題、文字が発見されない、文字の利用に至る過渡的段階、72.p
・突然の崩壊、紀元前2千年末頃、繁栄の頂点で突然崩壊する。大洪水で崩壊したという仮説が有力、一方、この時期は黄河中流域の最初の王朝国家「夏王朝」の誕生前夜に当たることから、文明社会を経験した越系民族とされる良渚文明の難民の一部が黄河中流域に入り、闘争・融合を経て土着文化と合体した結果、「夏文化」という新しい混合文化共同体を生み出したのではないかとする仮説、75.p(この仮説は面白いな!!
数と量の出会い 数学入門 (大人のための数学 1)
志賀 浩二 / 紀伊國屋書店 (2007-11-14) / 1,836円60 users
読了:  2009年12月31日
◆さいたま市図書館、09/12/25借出
・数と量とは数学に異なる二つの無限概念をたらした。数は無限大、または包括的な無限概念を提示したが、量の示したものは無限小に向けての動的な無限であった。44.p
- 1 users
タグ 医学 カテゴリ:Web Web 更新日:2009年12月30日 16時44分18秒 2009/12/30
読了:  2009年12月30日
◆糖尿病患者に対する低用量アスピリンの投与による動脈硬化発症リスクの抑制効果に関する初めての大規模追跡調査として注目すべき。臨床試験の代表者の熊本大大学院の小川久雄教授は「これまでにない世界最大規模の試験で、糖尿病患者に対する低用量アスピリンの一次予防の有効性を世界で初めて評価できた」と話している。(08/11/21熊本日日新聞から)
・アスピリン投与群と非投与群との累積発症率の比較グラフは同サイトを参照
- 1 users
タグ 医学 カテゴリ:Web Web 更新日:2009年12月30日 11時34分25秒 2009/12/30
読了:  2009年12月30日
・脂肪細胞を培養して,これを内臓と皮下に移植してその機能を検討してみると、内臓に移植したときに,高イン
スリン血症をもたらし,インスリン抵抗性がみられ,中性脂肪が高く,血中TNFα の上昇がみられ,移植された脂肪組織でのTNFα,VEGF のmRNA の発現が上昇していた.このことは,内臓は脂肪細胞にさまざまな動脈硬化の危険因子を生じさせるような,いわば環境を生みだしているともいえる。
・動脈硬化巣の基本的な像は,内膜の肥厚であり,そこには平滑筋細胞の増殖像,マクロファージなどに由来する泡沫細胞の蓄積,繊維成分の増性,石灰化など多彩な病巣を呈するのである。
糖尿病特有の平滑筋増殖能、細胞増殖能を検討してみると糖尿病から採取した平滑筋細胞は継代しても増殖能が高いという性質を保持し続けている.すなわち糖尿病状態ではこのような形質の変換をしているといえるのである.これを引き起こしている要因は何か,このような形質はどのような機序によるのかということが問題になる.
・この因子は単純ではないと思われるが,検討した中では,糖尿病状態を作成した時点で,動脈硬化がないときにすでに,中膜において血小板由来因子受容体(PDGFR),TGF-β-/受容体(TGF-β type/R),オステオポンチン(OPN)などの発現が亢進していることが見られた.これらが何らかの連携を持ち,増殖能や遊走能の亢進に寄与しているであろうとも考えられる.
- 1 users
タグ 医学 カテゴリ:Web Web 更新日:2009年12月30日 10時43分35秒 2009/12/30
読了:  2009年12月30日
◆薬学用語解説
・脂肪細胞は、単なるエネルギーの貯蔵細胞ではなく他臓器の代謝に影響を及ぼす多彩な生理活性物質を血液中に分泌する内分泌細胞だという点が、重要なポイント。脂肪細胞から分泌される生理活性物質を総称してアディポカインまたはアディポサイトカインという。(『糖尿病学』3-17参照、518.p~)
- 1 users
タグ 医学 カテゴリ:Web Web 更新日:2009年12月30日 09時59分58秒 2009/12/30
読了:  2009年12月30日
アディポネクチン受容体、最近発現クローニングによって2 つのサブタイプ(AdipoR1 並びにAdipoR2)のアディポネクチン受容体を単離・同定することに成功した(Nature 2003 ; 423 : 762―769).骨格筋には主にAdipoR1 が,肝臓には主にAdipoR2 が発現し,血管やマクロファージにはAdipoR1/AdipoR2 の両者が発現している.AdipoR1 は骨格筋におけるアディポネクチンの糖の取り込み・脂肪酸燃焼の促進を媒介し,AdipoR2 はアディポネクチンの肝臓における脂肪酸燃焼促進を媒介する.
アディポネクチンが最も重要なインスリン感受性調節アディポカインであると考え,メタボリックシンドローム形成における役割を検討してきた。
・(高脂肪食下で肥満とインスリン抵抗性,高脂血症を起こすマウスを使った実験によると)高脂肪食下で肥満や脂肪細胞肥大が惹起されると,アディポネクチンは脂肪細胞特異的なホルモンでありながら,著明なダウンレギュレーションを受けることがわかった。
・アディポネクチンは骨格筋と肝臓において,糖取り込みや脂肪酸の燃焼を起こす鍵分子であるAMP キナーゼを活性化する。AMP キナーゼの活性化は,骨格筋では糖を取り込み,脂肪を燃焼する.また,AMPキナーゼの活性化は,肝臓では糖の新生を抑制し,脂肪を燃焼する。
アディポネクチン遺伝子多型、肥満に伴って後天的にアディポネクチンの遺伝子の発現が低下するのみならず,ヒトにおいては遺伝子多型によって,体質的にアディポネクチンの分泌が一部既定されていることがわかっている。
・G かT の組み合わせによりアディポネクチン遺伝子には3 つの遺伝子型があるが,G/G 型は生まれつきT/T 型にくらべてアディポネクチンの血中レベルが2/3 に低下し,インスリン抵抗性と糖尿病のリスクが亢進する
ことが認められた.さらに,われわれの検討により,日本人の40% はこのG/G 型を持っており,このアディポネクチンの遺伝子多型で日本人の2 型糖尿病の遺伝子素因の約15% を説明しうることがわかった。
・アディポネクチン欠損マウスは,インスリン抵抗性,耐糖能障害,高中性脂肪血症と高血圧などメタボリックシンドロームを呈した。大変興味深いことに,インスリン抵抗性のみでは通常は高インスリン血症が起こってくるが,アディポネクチン欠損マウスはインスリン分泌がかえって低下し,アディポネクチンはインスリン分泌にも保護的に働く可能性も示唆された。
・アディポネクチンはインスリン抵抗性改善作用に加えて,血管障害抑制作用をもっていると考えられる。したがって,アディポネクチンが低下すると,実際にメタボリックシンドロームにより間接的に心血管病リスクが高まるのみならず,直接的にも動脈硬化が促進される可能性も想定される。
稲作漁撈文明―長江文明から弥生文化へ
安田 喜憲 / 雄山閣 (2009-03) / 5,184円2 users
読了:  2009年12月29日
◆さいたま市図書館、09/12/24(草原の文明ないし砂漠の文明に対して「森の文明」の提唱は卓見だと思う。しかし家畜の民=畑作牧畜民と森の民=稲作漁撈民との対立拮抗を、現代の「市場原理主義のグローバル経済化の危機」の根底にあるものとして敷衍して捉えるのは、牽強付会の説を成すの感有り、330.p参照)
・モンスーンアジアの長江流域から日本列島にかけては、1.65万年前には、土器を使用するライフスタイルが広く存在した。一方、西アジアでは土器が作られるのはせいぜい1万年前で、普及するのは8千年前、..土器の使用は、食生活に深く関わっている。35.p
・土器の発明は、森の資源に炭水化物を、主たるタンパク質を魚に求める食生活から始まったのである。つまり森の資源と魚を食べることが定住革命と土器革命を生み、土器革命によって始めて粒状のコメを煮たり蒸したりして食べることができる稲作が始まった。38.p
・仙人洞遺跡や玉蟾岩遺跡など、一万年以上前まで稲作の起源が遡る遺跡は、南の森林地帯と北の草原地帯のはざまに位置している。そこは森と草原がモザイク状に入り組んだところにある。66.p
東亜稲作半月弧、中心は長江中流域の湖北省や湖南省であり、東端は長江デルタ、西端は四川盆地煮至る半月形の地帯である。ここは稲作農耕の起源地であり、かつその稲作の発展の上に、6千年前には大渓文化、5.5千年前には屈家嶺文化、5.3年前には良渚文化など中国最古の都市文明を誕生させた地域である。67.p
・城東山遺跡、城壁-6300年前、水田-7000年前、祭壇-6000年前、祭政殿-5300年前、祭場殿-5300年前、焼成れんが-6000年前、113.p
・6300年前以降の気候の寒冷化と夏季モンスーンの弱化が、長江文明の誕生と深く関わっているのではないか。夏季モンスーンの弱化が夏季の降水量の減少をもたらし、気候の乾燥化と湖水位の低下を引き起こした。水位の低下は、水田の可耕地を拡大させ、生産力の増大をもたらした。更に気候の乾燥化は、灌漑水の確保を必要とし、灌漑水のコントロールのために都市や王権が誕生したのではないか。116.p
4200~4000年前頃長江文明は衰退期に入る。(畑作牧畜民の古代文明は乾燥化と塩害によって崩壊する。長江文明の崩壊は、このような自然の収奪と環境破壊ではなく)人口の増加に伴う激しい汚染や病気の蔓延の可能性がある。更に最大の要因は気候変動に伴う民族の移動である。..とりわけ長江文明を崩壊に導いた決定的要因は、気候の寒冷化による北方からの金属製の武器を持った畑作牧畜民の南下であったとみられる。127.p
・3500~3200年前頃、もう一度気候が悪化し、3200年前頃には著しい寒冷期を迎える。この時期に東アジアでは民族移動の嵐が吹き荒れ、中国では北方から周を代表とする畑作牧畜民の侵入があり、春秋戦国の大動乱時代に突入する。この時代にも大量の難民が雲南省や貴州省に移動するとともに、メコン川や紅河さらにイラワジ川を下って、東南アジアへと大移動が起こった。日本列島にソバの栽培や水田稲作が伝播するのがこの時代であることは、気候悪化の影響を受けた人々の民族移動に伴うものと見られる。144.p
抜歯と文字文化、抜歯の風習を持たない中原の畑作牧畜民はいちはやく文字を発明し、黄河文明を創造した。これに対して、長江文明には文字がなかった。少数民族の稲作漁撈民が作り出した長江文明はなぜ文字文化を発達させなかったか。それには抜歯の風習が関わっていたのではないか。抜歯の風習を堅持し、日本列島にボート・ピープルとして漂着した稲作漁撈民を始め、中国大陸で長江文明を発展させた少数民族は文字よりも「言霊」を重視した。それゆえ文字文化を発展させなかった。「言霊」の出る口は聖なる場所であった。その邪気を払うために抜歯を行ったのではないか。お歯黒も同じ意味であろう。151-152.p
・黄河文明は明らかに西方との深い関係の中で発展した文明であり、ヒツジやヤギを飼い、肉を食べ麺類や万頭を食べる畑作牧畜民の文明である。(163)黄河流域は、漢民族につながるモンゴロイドの畑作農耕民と、白色系の牧畜民が出会う文明の接触地帯であった。彼らはプロト・インド・ヨーロッパ語族とでも呼べる牧畜民であった。北方ユーラシアに広がる草原地帯を西から東へと移動して、西アジアや地中海文明の影響を東アジアへともたらした。黄河流域で黄河文明が誕生した背景には、こうした西方ユーラシアからの他文明の影響があったからではないか。..これまで黄河文明は、アワなど雑穀とムギを栽培する農耕に生業の基礎を置いた純粋な農耕文明であると思われてきた。しかし雑穀などの畑作とともに、牧畜が極めて大きな役割を果たす畑作牧畜民が作った文明であったのである。167.p
・地球の気候が寒冷な氷河時代から、後氷期と呼ばれル温暖な時代に大きく移り変わる激動の晩氷期に、縄文時代は始まる。1.65万年前に土器革命をなしとげ、1.5万年前には定住革命を成し遂げていた。この土器革命と定住革命が縄文時代の開始を告げる人類史的事件である。290.p
・文字と金属器は、文明のメルクマールになりうるか?296-300.p
・日本への水田稲作の伝播は、縄文時代晩期の3千年前まで遡る。更に後期の4千年前まで遡る可能性もある。但し後期の稲作は熱帯ジャポニカであり、焼畑のような状態で栽培されたとみなされている。これに対し、温帯ジャポニカを水田で栽培する稲作は、晩期の3千年前に伝播した。更にその伝播経路も、これまで陸路で大陸経由で朝鮮半島を南下する伝播ルートは完全に否定され、いずれの場合も黄海か東シナ海を越える海の伝播ルートが重視されるようになった。305.p
吾妻鏡の謎 (歴史文化ライブラリー)
奥富 敬之 / 吉川弘文館 (2009-07-21) / 1,836円14 users
読了:  2009年12月28日
◆さいたま市図書館、09/12/24
・源氏三代に対しては、その欠点・失敗・悪行などを随所で指摘して、読むものに対して源氏将軍に対する批判の目を開かせるような書き方をしているのに反し、得宗家歴代の善政・業績などについては、正面きって堂々たる筆致で書かれていて、読むものに得宗家に対する感謝あるいは共感の念を呼び起こそうと図っている。いずれにしても得宗家の歴代は、『吾妻鏡』では一度も非難されていない。12.p
・『吾妻鏡』が幕府滅亡ではなく、文永三年で終わっている(のは、私の理解によれば)得宗政治は法治主義と合議制とに基づく善政でなければならない。そうでなければ、源氏三代に代わって得宗家が政務をとるようになったことの利点が、説明出来ないからである。ところが歴史の現実は大きく変化していた。文永・弘安の頃の平頼綱から始まって、やがて長崎円喜に続く内管領中心の政治形態が、幕府に現出してきたのである。得宗政治の変質というより、一部には御内人専制と呼ぶ向きもある。15.p
・諸国を流浪していた義経は、時には豪族土豪の領主階級に使用されていた「土民百姓に服仕され」たりしていた。つまり流浪時代の義経が属していた階級は、領主階級の下位の土民百生の、そのまた下位だった。当然、東国武士たちの行動の有り様を知らなかったから、源平合戦では奇抜な戦法をとることができたのだろう。のちの楠木正成の悪党戦法の先駆だったのである。51.p
『吾妻鏡』の一揆の用例(からみると)、幕府御家人は、日本史上で最初の幕府を、自分たち東国の武士たちが結集団結したもの、やや現代的に言えば、”東国武士たちの組合”のようなものと考えていたことになる。そうとすれば「独歩」というのは、”組合からの離脱”、”組合から抜け出る”という意味になる。それは、幕府という組織への背反になるから、当然、御家人社会ではとんでもない悪事だったのである。..従来、鎌倉幕府というものの理解について、頼朝と御家人との間の主従関係に焦点が合わされていて、いわゆる御恩と奉公という観点が主だった。しかし今後は、東国武士たち自身が考えていた「鎌倉幕府」=東国武士たちの一揆という観点からも再検討する必要があるかもしれない。だいたい「御恩」「奉公」「忠義」などという語は『吾妻鏡』にはない。99.p
・記事脱漏年の問題、頼朝生涯最後の三年間の空白(様々云われているが、いずれも憶測の域をでない)192-204.p
レパントの海戦 (新潮文庫)
塩野 七生 / 新潮社 (1991-06-28) / 562円174 users
購入:   500円 所有
読了:  2009年12月24日
ルイスの「アジア海域におけるオスマン帝国艦隊の敗北と崩壊に比べると大して重要ではなかった。まもなくオスマン帝国は地中海で海軍力を復活させ」(『イスラーム世界の二千年』)の指摘は、レパント海戦についての西洋世界の評価或いは僕の従来の認識とはずいぶん違った印象を受ける。故に「海戦」そのものを復習するため再読。「小説」とはいえ、むかし読んだ印象では史料に忠実な小説仕立ての海戦史と云うべし。なお『世界歴史事典』(9-453.p)では「この海戦はスペイン黄金時代Siglo de Oro を表象する一戦であり」と指摘。
・外交官のいないトルコでは、重要任務でもしばしば、必要から数カ国語をあやつれる非支配民族のギリシャ人を使う。..2月27日、このギリシャ人は元首官邸内(ベネチア)の元老院議場で、スルタンの親書を読み上げ、それへの回答を求めた。親書は実に高圧的な調子で終始し、キプロス島の”返還”を要求した。55-56.p
・ベネチア大使バルバロは、1570年5月から大使館内に監禁された。しかし外部との連絡は継続された。当時西欧諸国の中で、トルコとの間に定期的な郵便制度を持っていた国はベネチアだけで、その業務を担当する部門はベネチア大使館にあったのである。コンスタンチノープルでいまだ経済活動だけは続けていたベネチア系の商人たちは、本国を始め、ベネチアの他の商業基地や全ヨーロッパの主要都市に散らばる支店にむけて、取引上の通信を送る必要が常にあった。100.p
・対トルコの連合艦隊の実質的な主要国はベネチアとスペインだけだが、両国の関係は敵対的とも言えた。しかしトルコの脅威を跳ね返すには互いに相手を必要とし、法王を仲立ちに辛うじて同盟した。106-111.p参照
・連合艦隊の規模は軍船二百隻、戦闘員五萬。総経費の分担はスペイン3/6、ベネチア2/6、法王庁1/6と決められた。
・戦略目標、ベネチアの真意はキプロス救援、スペインの目標は北アフリカ攻略、法王はイスラム教徒との戦い。ベネチアは「キプロス救援」を明記したかったが、実際には地中海の東西に関わらず敵のいるところに出向き対戦する、と決まった。113.p
・無敵と思われて来たトルコ軍が、無敵でないことを実証した.それも、1453年のコンスタンチノープル陥落から始まった、トルコの攻勢に次ぐ攻勢の前に、全力を投ずる抵抗となるとほとんど一度としてなかったキリスト教勢が、実に118年後にして初めて獲得した、ほんものの勝利だった。203.p(この「勝利」の意義について、解説で高坂正堯はJ・E・C・フラーの言葉を引用して、コンスタンチノープルの陥落以後続いてきた無敵のトルコという神話を打ち破ったことにおいて、「その精神的重要性は圧倒的」なものであったとした。「トルコが自らの不敗に疑いを抱いたことが地中海世界の支配の喪失を生み、それが次の世紀には陸上の支配の動揺をもたらした」269.p)
中島 康秀 , 太崎 博美 / 永井書店 (2006-03) / 9,975円1 users
読了:  2009年01月20日
◆09/01、さいたま市図書館から借出す。ノートから摘記。09/12/24、再度借出す。
◆Ⅱ-9.高血糖、高インスリン血症と動脈硬化
・適切な血糖コントロールによって細小血管症はかなり予防しうることが明らかだが、大血管症に対する効果的な予防法は充分確立されていない。動脈硬化を促進する要因については、高血糖そのものが第一に上げられるが、インスリン作用不全、高インスリン血症などの関与について、未だに未解明の部分がある。173.p
ブドウ糖毒性によるインスリン抵抗性の発生機序について
イ.インスリン受容体の機能障害を伴わないヘキソサミン代謝異常説
ロ.インスリン受容体の機能障害を伴うプロテインキナーゼ(PKC)説
ハ.インスリン受容体の機能障害を伴うチロシンホスファターゼ(PTPase)説
この三説が複雑に影響しながらインスリン抵抗性の病態を形成している。(「糖尿病学」第一章の23、48を参照
・高血糖に伴う代謝異常
①血管内皮細胞の機能異常
②ポリオール経路、アルドース還元酵素を介したポリオール代謝の亢進が動脈硬化を促進する
③酸化ストレス、糖尿病状態では血管組織での活性酸素の産生が亢進される
④糖化反応(グリケーション、またはメイラード反応)、アマドリ転位産物までの前期反応と、その後、酸化・脱水・縮合反応によってAGE(糖化最終産物)にいたる後期反応に分けられる。(この部分は、「糖尿病専門医にまかせなさい」第三章を参照。Wikiの「糖化反応」も参考になる。)
以上は、同書173-175.p
・高血糖による酸化ストレスと糖尿病性血管障害の発生機序(経路図)、176.p
早期インスリン分泌の低下による食後高インスリン血症による障害、2型糖尿病のインスリン分泌の特徴である早期インスリン分泌の低下は、食後高血糖をもたらすのみならず、遅延過剰型のインスリン分泌動態すなわち食後高インスリン血症を引き起こす。適度な運動をしていれば、分泌されたインスリンによりブドウ糖が積極的に筋肉に取り込まれるが、運動不足だと、インスリンが脂肪細胞、特に内臓脂肪組織の脂肪細胞にブドウ糖や脂肪を取り込ませ、結果として肥満、内臓脂肪蓄積を惹き起こす。更にインスリン作用が低下し、食後高血糖がより上昇すると、食後高血糖の上昇により遅れて分泌されたインスリンにより、ますます肥満が助長されるといった悪循環が形成される。177.p
・疫学的には、高インスリン血症が虚血性心疾患を増加させることが指摘されており、インスリン抵抗性は動脈硬化症の独立した危険因子であることは明らかだが、インスリンが血管病変をもたらす仕組みの解明はまだ不十分である。177.p
◆Ⅲ-1.治療総論
・山形の舟形研究でも明解に示されたが、2時間血糖値による耐糖能異常と糖尿病群で冠動脈疾患発症が多いことが証明され、空腹時血糖とは相関しないことが明らかになった。184.p
・血栓症はいったん発症すると、それぞれの臓器に不可逆的な変化を惹き起こすことが多い。217.p
・急性心筋梗塞の発症は冠動脈壁の粥腫に破綻が生じ、その部位に血栓が形成され冠動脈が閉塞されることで心筋への酸素及び栄養の供給が絶たれ、心筋が壊死に陥ると考えられている。急性心筋梗塞の発症に血小板、血栓が強く関与しており、その前段階の狭心症においては、抗血小板薬、抗凝固薬の役割は重要である。226.p
◆Ⅳ-1.リハビリ
・心筋梗塞の治癒過程で壊死に陥った心筋組織が瘢痕化するのに一ヶ月を要するという病理学的検討から、心筋梗塞発症後一定期間の安静臥床が行われていたが、最近は安静に伴う脱調節の弊害が指摘され、安静は運動対応能を低下させるため、安全で適切な運動療法が推奨されている。289.p
林 義勝 / PHP研究所 (1995-11) / 1,427円1 users
読了:  2009年12月25日
◆09/12/24、さいたま市図書館から借出。
・文明は結果ではなく、プロセスである。
文字の発生、階級の分化、専門職人層の形成、都市の出現、余剰生産、血縁関係を基本にしない社会関係、軍事統帥権の拡大などは王朝国家が成り立つ必須条件だが、これらは非常に長い社会的進化を必要としていたはずである。62.p
・常識を覆す最も驚異的な可能性とは、紀元前4000年紀後半から前3000年紀後半にかけて黄河流域より長江流域の方が経済的に、文化的にはるかに進んでいたということである。..最近発見された大観山遺跡という人工で築かれた総面積30万平方米にも及ぶ巨大な基壇は、祭政一致の王朝の権威を誇る記念碑的な代建築群として、部族連合の段階から国家統合の時代への飛躍が達成されたことを強く印象づけている。一方、国家統合の精神的な根拠とも言える宗教のあり方は社会階層化と権力の占有において決定的な意義を持つため、宗教に欠かせない玉製儀器を作るための大規模な技術の展開を促し、輝かしい玉器文明の興隆をもたらした。63-64.p
・良渚文化の初期国家の段階への進歩は紀元前3300~2200年の間に成し遂げられたが、紀元前2200年頃、この高度に発達した最初の文明国家は大洪水に見まわれ、突如崩壊したようである。その後、何故か黄河流域に玉器や良渚式の土器や生産用具などが姿を現し、それらを伴って大基壇を持つ宮殿なども河南省の二里頭という夏王朝の首都と見られる遺跡に出現した。65.p
イスラーム世界の二千年―文明の十字路 中東全史
バーナード ルイス / 草思社 (2001-07) / 4,968円8 users
読了:  2009年12月20日
・イスラーム教は征服によって広められたといわれることがある。イスラーム教の普及を可能にしたのは、かなりの程度まで征服と植民地化が並行して進められた結果だとはいえ、そうした言い方は間違っている。・・征服者たちの初期の世代は、アラブ人と非アラブ人との間には、たとえ後者がイスラーム教を信じ、アラビア語を話すようになっていても、厳然とした社会的境界線を設けていた。..アラブ帝国の真の驚異は、実際に行われた軍事的征服そのものよりもむしろ、征服した地域の人々のアラブ化とイスラーム化である.アラブ人が政治的にも軍事的にも優位性を保っていた期間は非常に短く、まもなくアラブ人は帝国支配と、自分たちが生み出した文明の主導権さえも他者に譲り渡さざるを得なくなる。92-93.p
・694年、アブド・アルマリクは新しいカリフ国通貨を発行した.これは非常に大きな影響力を持つ重要な出来事だった。それまで、金貨の鋳造はローマ帝国皇帝から受け継いだビザンツ帝国の特権で(この「特権」の意味は何なのか?帝国の権威に敢えて挑戦するものが居なかったという意味か、単に技術的能力または必要性がなかったということか)、世界中にそれ以外の金貨は存在していなかった。アラブ人がこれまで鋳造してきたのは銀貨だった。107.p
アッバース朝、747年、ペルシャ人の解放奴隷で過激派のリーダーだったアブー・ムスリムは、イラン東部のホラーサーン州で蜂起の黒旗を翻した。..カリフ位がウマイヤ朝からアッバース朝に取って代わられたことは、単なる王朝の交代ではなかった。それは一種の革命だった。117-118.p
・政府の要職の大半はアラブ人で占められ、アラビア語は政治と文化の唯一の公用語として残り、アラブ人の土地の税制的優遇は続いた。社会的にも、少なくともアラブ人優位の原則は変わらなかった。アラブ人は、実際の権力を失ったのではなく、権力による利権を主として混血の身内である他者と分かち合わざるを得なくなったのである。ウマイヤ朝時代には、両親ともにアラブ人の家系のものしか国家の要職に就けなかった.アッバース朝になると、混血アラブ人ばかりではなく、ペルシャ人やその他の民族出身者でも、カリフの宮廷で出世できるようになった。119.p
大草原民族の到来、モンゴル人による征服の影響、とりわけ彼らが及ぼした被害の範囲と大きさもまた、誇張されている。一時期、モンゴル人による破壊は、古いイスラーム文明を衰退させ、その後の中東における経済、社会、文化、政治的欠点のすべてがそのせいにされた。..今では、モンゴル人の征服による破壊的な影響は、かつて考えられたほど大きくもなければ、長期にわたるものでもなく、範囲もそれほど広くなかったことが認められている。..征服当初の衝撃が緩和されると、モンゴル人の族長たちはイランに政治的には比較的安定した一時期を与え、都市生活、産業、交易の再興を奨励し、彼らが役に立つと考えた学問や、1295年にイスラームに改宗してからはイスラーム文学や知識の習得も促進した。..ある意味ではモンゴル人による征服は、停滞していた中東文明に、事実上、新生活を吹き込む役割を果たした。147-148.p
異なった文明の接触がうんだ成果の好例は、ラシード・アッディーンによる『集史』である。彼が集めた協力者のなかには、数名のペルシャ人学者のほか二人の中国人学者、カシミールから来た仏教徒の隠者、モンゴル人の部族伝統の専門家、西方からはフランク族の修道士がいて、彼らの助けを借りて、イギリスから中国にまで及ぶ世界史を執筆した。149.p
レパント海戦、レパント海戦は、ヨーロッパの全キリスト教徒の間では大勝利として祝われた。しかし、それはアジア海域におけるオスマン帝国艦隊の敗北と崩壊に比べると大して重要ではなかった。まもなくオスマン帝国は地中海で海軍力を復活させ、彼らのヨーロッパの占領地を攻撃から守ることができた。172.p
・17世紀は、対等関係の不承不承の譲歩で始まり、決定的な敗北を認めて終わった。ムスリムとキリスト教徒の世界の政治的・軍事的勢力の均衡は少しずつ変化していき、その教訓が認識され、生かされるまでにしばらく時間がかかった。経済的な格差はもっと表面化しにくかったが、こちらの方が影響は深刻でしかも重要だった。大陸発見航海の後、ヨーロッパの商業、ひいては権力の中心は、地中海から大西洋に、ヨーロッパの中部と南部から西の海洋国家に移った。178.p
・15世紀から16世紀にかけて、レーニンの言葉を借りれば、「逃亡することによって異議申立ての意思を表明する」亡命者の移動は、西から東へ移ってきたのであって、我々の時代のように東から西へではなかった。1492年にスペインを追われたユダヤ人がトルコに逃げ込んだことはよく知られているが、決して珍しい現象ではなかった。ユダヤ人と同様、自国の主流派の教会によって迫害を受けた宗派の違うキリスト教徒の亡命者グループも、オスマン帝国の領土内に逃げ込んだ。187.p
・オスマン帝国の制度では、知行は基本的には徴税請負権で、少なくとも理論的には、終身もしくはある限られた期間だけのものであり、権利の所有者が軍務を離れれば没収されることになっていて、相続権も領主としての支配権もなかった。他方、土地の分割や一極集中を防ぐためオスマン帝国の政策により、農民は永代借地人としてその権利を相続できた。その結果、彼らはそれまでのキリスト教徒の支配下にいるときよりも、自分の農地についての自由度が増した。彼らが払う税金の額も以前より少なめに計上され、その集め方も近隣諸国より温情的だった。188.p
講座 文明と環境〈第3巻〉農耕と文明
梅原 猛 , 安田 喜憲 / 朝倉書店 (2009-07) / 3,990円2 users
購入:  2009年12月17日 3,990円 所有
読了:  2009年12月18日
・95年初版を古書で購入
・稲作文明は狩猟採集文明の中から生まれ、そして共存してきた.むしろ初期にはその共存の度合が密接であり、稲作農業文明が発達する過程で森が破壊され、共存の度が薄くなったのだろう。12.p
・良渚文明は4200年前に終る。伝説によれば、蚩尤という王が、北方の黄帝と炎帝の連合軍に滅ぼされたという。約4000年前、(この黄帝の何代か後の)禹から夏王朝が始まる。とすると蚩尤伝説は滅び去った歴史を語っているのではないか。小麦と牧畜を基礎とする黄帝は、稲作文明を基礎にした江南の文明を滅ぼして、華北に新しい文明を起こしたのではないか。新しい文明の象徴が青銅器であった。15.p
西アジア型農耕文化の開始、ナトゥーフ期(打製石器の形状に拠る分類、12500-10300年前)定住集落が現れる。最終氷期を迎え13000年前頃から本格的な森林が出現し始め、森とその周辺で得られる豊富な食料資源を利用・開発することで定住生活が始まった。ナトゥーフ後期には内陸の草原地帯からもナトゥーフ的石器が出土し始め、季節的遊動生活から(草原に生育する草本性植物に注目する)定住生活への移行の跡が見られる。134.p
・ナトゥーフ期に続く先土器新石器A&B期になると、多種多様な草本類の中からコムギ、オオムギ、数種のマメ類など生産性、貯蔵性の優れた一年生草本の選択的利用と栽培が始まった。それにともなって耕地の開発や巨大な集落の建設、ヤギなどの放牧に伴う森林破壊が進行した。139-140.p
ジャポニカ長江起源説、アッサム-雲南起源説の根拠は、同地域が「遺伝的多様性の中心」という事実だけである。169.p
・アッサム-雲南起源説は照葉樹林文化論を基礎にしている。これは西ネパールからヒマラヤの南山麓を通り、中国南西部を経て西日本に至る帯状の地帯に広がる照葉樹林帯に生まれた文化で、焼畑農耕に基づく雑穀栽培、ナットウやなれずしなどの発酵保存食の利用、高床式住居などの居住形態などの文化複合を形成している。イネは焼畑などで栽培される雑穀の一つとして扱われる。170.p
・中国の考古学上のデータでは、最も古い稲作遺跡が分布するのは長江の中流から下流域で、紀元前5000年から6000年の遺跡が発掘されている。一方、雲南地域の稲作開始は紀元前1000年から2000年程度である。171.p
・イネの野生種は、今日、北回帰線の南に集中している。かつては長江の下流域にも広がっていたが、地球の寒冷化によって野生種が衰退、これが栽培圧を高める一つの要因になったのではないか。175.p
・栽培種のジャポニカとインディカの二つのタイプは、すでに野生種に存在する。しかも両者は、生まれも育ちも違う、別な作物と考えて良いほど違う。179.p
・世界で最初に栽培化されたイネは、多分、ジャポニカで、7000年から8000年前に長江の中、下流域でジャポニカ型の多年生野生イネから生まれたと考えられる。180.p
・長江文明が想定されるなら、それはジャポニカのイネに支えられた文明で、照葉樹林文化と深い関わりを持っていたと想像される。181.p
長江文明の曙 (長江文明の探求)
梅原 猛 , 樋口 隆康 , 厳 文明 / 角川書店 (2000-03) / 2,310円1 users
読了:  2009年12月13日
長江文明は何故かくも刺激的なのか?我々の世代の常識では、大河流域に発達した世界の四大文明は(トインビーは旧世界の第一世代文明にミノア文明を含め五大文明としている)、いずれも乾燥地帯のムギ文化圏に属す。しかもムギは西アジアに発祥し、世界に伝播したと考えられてきた。一方、イネはインドアッサム地方(または雲南省)に発祥し、ムギに遅れて、主に東アジアに伝播したというのが常識だった。/常識を覆す仕事は、常に刺激的である。常識の転換とともに我々の世界に対する物の見方が転換する。しかもそれが「文明の発祥」という我々の世界の出発点についての根源的問題に関わるとあれば、歴史的思考のパラダイム転換への契機となることは間違いない。トインビーは、黄河と揚子江流域の自然環境を比較して書いた。「シナ文明はどこに生まれたであろうか。慈悲深い揚子江の流域であろうか、それとも悪魔のような黄河の流域であろうか。それが黄河の流域に生まれたこと、そしてシナ文明が挫折して、その衰退の第一期である動乱時代に入るまで揚子江下流域はシナ社会の圏内に入れられなかったことを我々は知っている」(『歴史の研究』3-55.p)。これは文明の発祥を、様々な「挑戦に対する応戦」という概念で捉えるトインビーの視点から見た黄河と長江の自然条件の違いをもとにした比較文明論である。長江文明の可能性は、「挑戦に対する応戦」の概念そのものを必ずしも否定してはいないが、即時的にはトインビーの指摘は覆されたと云わねばならない。/草原の文明に対する「森の文明」という安田喜憲の指摘は、明らかに新たな文明史観を拓く可能性を示唆する。更に、自然を改造すべき客体とみなすか、あるいは自然との調和を目指し、我々自身をその一部とみなすかの自然観の根源的相違、ひいては一神論と多神論の拠って来る自然条件に関わるかもしれぬ。/歴史は、ある意味で、常に各時代の過去への投影であり、各時代は「各々の独自の歴史認識」を持っている。過去の歴史的事実が、新たに明らかになるという意味のみならず、歴史を再構成する視点そのものが質的に転換されるという意味でも、超歴史的な「唯一真実の歴史」等というものはない。(09/12/13、さいたま市図書館)
・雲南またはインドのアッサムに稲作文化の起原があったというのが通説だが、実は長江中流域で1.4万年前に遡る稲作の痕跡が発掘された。
・これに伴って、黄河文明中心の考え方を見直す必要が出てきた。中国の古代文明は黄河一極ではなく、長江を含めて、少なくとも二元的或いは多元的な起原ではないか。17.p
稲作起原の辺縁・周辺理論、華南地方は日照が充実しており、熱帯雨林で多種多様な植物が育っているわけで、わざわざ野生稲を手懐けて栽培化する必要がない。第二に、長江流域は冬が非常に長くて、この間に食べられる自然植物がない。そこに人類が生活していくには、食物が是非とも必要で、貯蔵性に優れた稲が注目された。しかも華南地域と違って、野生種の稲が少ない。少なかったからこそ栽培して増やしていく必要があった。32-33.p
・もっとも古い稲作の起源地としては、長江中流域の可能性がもっとも高い。しかしそこが唯一の中心地だったかどうかは不明、というのは下流域の河姆渡と馬家浜遺跡の稲作には、在地で発達した可能性があり、別系統というこもありうる。44.p
・旧石器と新石器時代の区別は、打製と磨製、土器の有無、農業の開始という三つの基準があったが、これを世界的な範囲に適用すると難点がある。西アジアでは新石器時代に入ってからも、非常に長い土器のない時代=前土器新石器時代が続く。一方、日本では縄文文化の土器は万年単位で続くけれど、農業は確立していない。したがってそれぞれの地域の環境、風土、生産様式に適応して、相前後して農業を起こしたり、磨製石器を利用したりしなかったり...(三つの基準で一律にわけられない)46.p
稲作起原の発掘史、屈家嶺文化の遺跡で新石器時代に属する稲跡が発見され、紀元前3千年代前半に長江中流域にかなり発達した稲作農業が存在していた事がわかる(1950年代)、河姆渡遺跡が発見され、大量の稲籾と稲作農耕具が検出された。紀元前5千年に遡る(1970年代)、長江中流域の彭頭山遺跡・城背渓遺跡で河姆渡遺跡より千年以上古い稲作の証拠が発見される(1980年代)、最近の仙人洞遺跡・吊桶環遺跡の発掘によって、土器の起原は1.4万年前まで遡り、稲作も一万年以前に遡る可能性が出てきた。77-82.p
土器の出現、シベリア、日本、モンゴル、長江流域、ガンジス川流域に、かなり古い時期に土器が出現している。大きく分けて考えると、長江流域とガンジス川流域の土器は農業と関係があったのに対して、日本、シベリア、モンゴルの場合は、集約型採集経済に関連していたのではないか。49.p
・日本では、稲作農業の前に畑作が入った痕跡がある。最近弥生時代初期のコメが発掘されたが、畑作の稲のようで、まず畑作が入ってきて、その上に稲作が入ってきたのではないかと考えられる。92.p
ヨーロッパ歴史地図 (タイムズ・アトラス)
読了:  2009年12月12日
・個別的な・ないし地域的な歴史地図を見る機会は度々ある。しかし地図を通してヨーロッパ全域の歴史を鳥瞰する体験は、この歴史地図によって初めて経験した。監修者の樺山氏は、「あとがき」に、この地図の楽しみ方として、
二ページ分の見開き図が46枚ある。紀元前900年から、1997年までの46枚はすべて同じ大きさのヨーロッパ地図である。「ひとつのヨーロッパ」の実在と呼んだのはこのためだ。だが、46枚の同じヨーロッパ地図には、一つとして同一の色彩区分はない。いつもヨーロッパは政治的に変動しているから。ためしに46枚を順にたどってみよう。その変動の激しさといったら。(「地図」に現された「ひとつのヨーロッパ」の実在とは、単なる仮想的実在でしかない。現実は「分裂と統合」の絶え間ない繰り返しで、それは地図をパラパラと俯瞰すれば一目瞭然。それの分らぬ樺山氏ではないが「人々が住みなす大陸としてのヨーロッパは、歴史を通して単体として実在した」との指摘の積極的意味が分らぬ。
そのうえで、こんどはひとつの国の誕生と連続と変化と終焉とをたどる。例えば、オスマントルコ帝国を例にとる。1382年の見開きにはじめて登場する。1925年のそれではトルコ共和国にかわる。1997年までの間に24回、地図上に現れる。その領域は地図では常に同じピンクに彩色されているが、拡大と収縮とが時代ごとに継起する様は、一目瞭然である。

と書いている。(09/12/12、さいたま市図書館)
国民国家の形成、一般的には国民国家の始まりは16世紀にさかのぼるが、1530年当時には国民国家が栄えようとはだれも予測しなかったであろう。その頃もっとも繁栄していたのは国民国家ではなく、東のオスマン帝国やカール五世がスペイン、ネーデルランド、ハプスブルグ家領オーストリアなどを併合して築き上げた「普遍的君主国家」などの複合国家であった。また、帝国都市の勢いも盛んで、神聖ローマ帝国を形成する多数の国々には、ヨーロッパの中でも特に裕福な国がいくつもあった。一方、フランスやスペインなどの西の王国は、長く続いた戦争と内紛のため自国の経済状態が悪化していた。112.p
大河文明の誕生 (長江文明の探求)
安田 喜憲 , 梅原 猛 / 角川書店 (2000-03) / 2,310円1 users
読了:  2009年12月11日
従来の文明史観に革命的なパラダイム転換をもたらす可能性を予見させる画期的な論述だ。ポイントは、乾燥・草原地帯から発祥した麦類・家畜を主軸にした文明一元論に対して稲作文明を主軸とする「森の文明」を提唱することで文明多元説を対置させる。トインビーは、『歴史の研究』において文明の発生を、「挑戦に対する応戦」という概念のもとに捉え、黄河流域に文明が発生しながら、なぜ長江流域には文明が発生しなかったかを論じて、黄河流域に比較して後者の温和な・比較的恵まれた自然環境を指摘した(第二巻参照)。黄河文明よりも遡る長江文明の発見は、直接的にはトインビーの仮説を否定しているかに見えるが、仮に5700年前の気候変動に伴う寒冷化・干ばつが長江文明の契機になったとすれば、より深い意味では「挑戦と応戦」という仮説は、新たな支援材料を得たことになる。(09/12/10、さいたま市図書館)
文明誕生多元説、気候温暖期は5700年前頃におわり、北緯35度以南の北半球の温帯亜熱帯の地方は、乾燥化が進行した。この気候の乾燥化によって、大河のほとりに人々が水を求めて集中した。もともと大河のほとりには農耕民が生活していた。乾燥化を契機として大河のほとりに人口が集中し、牧畜民と農耕民の文化の融合がきっかけになって古代文明が誕生したのではないかという仮説を提示した。25-26.p
・5700-4500年前の気候変動期において、類似した気候の寒冷化と乾燥化が進行した北緯35度以南の大河中・下流域では、多元的にどこでも文明誕生の契機があったはずであるというのが私の古代文明誕生多元説なのである。26.p
・気候の乾燥化によって、乾燥アジアから水を求め、食料を求めて、豊かな農耕民の富を求めて、牧畜民が大河のほとりになだれ込んできた。この5700年前の気候変動を契機とする牧畜民の侵入と略奪、牧畜民と農耕民の接触の増大、ついには牧畜民の定着化によってもたらされる異文化の接触と融合が、都市文明誕生の契機となった。40.p
・人類が何を食べるかということは、文明の誕生と発展に大きくかかわっている。佐々木高明氏は、世界の民族の主原料の獲得と利用の方式を大きく五つに分類区分している。1.採集・狩猟・漁撈型、2.牧畜=乳製品型、3.麦類=乳製品・肉類型、4.雑穀=汁類型、5.根栽作物卓越型である(参照『地域と農耕と文化』)。これまでの考古学者や文明史家は、古代文明と呼びうるものを誕生させたのは、3の食事体系をもつパンを食べる民族のみであったとみなしてきた。52.p
・三万年前の後期旧石器時代の開幕は、旧石器時代文化のビッグバンといってよい。それは石刃技法の登場で示され、この技法によって、類似した石刃を連続して大量生産することができるようになった。石器の大量生産の開始は、現代型新人が一つの観念を計画的に長く持ち続け、その目的を達成する能力を獲得したことを物語る。石器の大量生産という技術革新には、大型哺乳動物の計画的な大量殺戮を可能にした。...それが現代型新人に余剰と富への欲望を覚醒させたのではあるまいか。72.p
・人類が最初に麦作農耕を開始したのは、西アジアの「肥沃な三日月地帯」である。二万年ほどまえの西アジア一帯には、アカザ科やヨモギ属の広大な草原が広がっていた。その草原に生息するバイソンや馬などの大型哺乳動物を狩りして生活していた。ところが16500年前頃から、氷河時代が終わりに近づき、温暖化と湿潤化が始まった。81.p、気候の温暖化・湿潤化と森の拡大は、草原にすむ大型哺乳動物の生息環境を悪化させた。これに拍車をかけ決定的ダメージを与え絶滅に導いたのが人類の乱獲だった。これによって旧石器時代人は食糧危機に直面した。この危機を救ったのが、14500年前頃から急速に拡大していた森だった。人類は大型哺乳動物のいなくなった草原を捨てて、森の中の定住生活を始めた。人類が農耕生活を開始する前に、まず森の中での定住生活の開始が必要だった(参照、西田正規『定住革命』)。
・12800年前頃、ヤンガー・ドリアスと呼ばれる突然の寒の戻り引き起こされた。これによって約千年の間、再び氷河時代に逆戻りした。気候の寒冷化は森を直撃した。再び食糧危機に直面した。85.p、人類は再び草原に出て、新たな食糧となる野生オオムギや野生コムギを発見する。そのとき、森の中での千年以上培った植物資源を利用する技術が役立った。もし森の植物資源を利用する技術をマスターしていなければ、ヤンガー・ドリアスの寒冷期に人類は農耕を開始することはなかったであろう。87.p
・森の狩人だった現代型新人モンゴロイドが、いち早く土器づくりを開始し、定住生活に入った。土器を作るには森の土壌と、土器を焼く燃料としての木、そして土をこねる水が必要である。乾燥した草原ではなく、湿った森の中で土器が誕生した。土器はドングリなどの堅実類やヤマイモなどの根菜類と、魚貝類を煮炊きする道具として開発された可能性が高い。94.p
・チャイルドの新石器革命説と異なり、東洋では農耕の起源よりも土器の起源のほうが先行している。これまでのところ、長江流域での稲作の証拠は、15000年前が最古であるのにたいして、土器の起源はさらに三千年以上も古い。..12800年頃に引き起こされた西洋の麦作農耕の誕生とそれに続く土器の発明は、人類史全体の中では西洋の乾燥した麦作農耕地帯での一挿話にすぎない。102-103.p
・人類は長らく森の中に文明は存在しない、森は文明の敵だと思っていた。キリスト教の世界観の影響のもとに育成された近代歴史学のもとでも、森は未開・野蛮と同義だった。(しかし)長江文明を誕生させた風土は、西日本にまでつながる照葉樹林だ。237.p
・長江流域の生業の基盤は稲作である。5700年前の気候の寒冷化は南西モンスーンの弱化を引き起こし、干ばつをもたらした。メソポタミア低地のようにその気候変動が作物の栽培条件に適した条件をもたらしていない。では、いかなる気候条件が都市文明誕生の契機となったのか。現時点では推測の域を出ないが、5700年前の寒冷化とそれに伴って引き起こされる南西モンスーンの弱化は、干ばつを多発させ、人々はこの干ばつの危機に対処するため集団で水利灌漑の維持の必要性に迫られた。...さらに気候の乾燥化と寒冷化による海面の低下によって、長江下流域において「肥沃な三角州地帯」が出現し、これが耕作地を提供した。さらに気候の寒冷化によって北方の内モンゴル自治区から遼寧省を中心として発展した紅山文化などが崩壊しており、明らかにこの時代に民族の南下が認められる。275.p

プロフィール
<< 2017年4月 >>
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
読書状況
ウィッシュ21 冊
積読4 冊
読中78 冊
読了294 冊
読了数 (月別)
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
アマゾン検索
タグ (33)
155 歴史
86 医学
78 経済
40 社会
40 科学
38 政治
26 文学
24 金融
23 市場
21 辞典類
13 語学
12 農業
11 政治思想
10 食物
10 歴史小説
10 数学
10 バルザック
9 伝記・評伝
8 哲学/思想
7 運動
6 思索
5 NKB
4 統計
4 生命化学
3 地図
3 農政
3 ローマ
2 生物学
2 史伝
1 音楽
1 □世界システム論
1 宗教
1 白書
14 タグなし
ソーシャル
物々交換
アイデア
カウンター
累計2103  今日0  昨日0
since : 2009/05/22

©2007-2017 sunjin_fuuraiのバインダー