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さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる
購入:  2014年06月15日 1,944円 所有
読了:  2015年08月13日 星3つ
わたしたちの苦しみのほとんどは、実は、自分でつくっているものなんです。厳密に言うと、思考がこしらえているということになりますが。言うなれば、わたしたちは、必要のない苦しみを自分から背負っていることになります。これは、「すでにそうであるもの」に対する「拒絶」や、無意識のうちの「抵抗」が原因です。思考は物事に対して「決めつけ」をするものですが、すると、必然的に、ネガティブな感情がわき上がってしまうのです。苦しみの度合いは、自分がどれくらい「いま、この瞬間」に、抵抗しているかに比例しています。これは同時に、どれだけ自分が思考とひとつになっているか、という度合いをも示しています。思考は「いま、この瞬間」を嫌っているので、いつもそこから逃げようとしているからです。思考を「ほんとうの自分」とみなすほど、苦しみは増すばかりです。でも、それは見方を変えると、こういうことにもなりませんか? ・・・「いま、この瞬間」をあるがままに受けいれるほど、痛みや苦しみはなくなる。 (P52)
生きることの秘訣は、「(肉体が)死ぬ前に死ぬこと」であり、しかも「『ほんとうの自分』は死なない」と、さとることだと言えるのではないでしょうか。 (P68)
現在の自分の心が、過去の重荷を背負っていると、未来にも同じようなことを、いっそう強く経験するようになります。十分に「いまに在ない」と、過去はどこまでも、わたしたちを追いかけてきます。いまの、「自分の意識」が、未来をつくっているのですから、それをしているのも、もちろん「いま」です。 (P86)
現時点での意識が未来をつくっていると言いました。では、いったいどうすれば現在の意識を高められるのでしょう? それは「いまに在ること」です。真の変化が起こり得る唯一の時は、「いま」であり、過去を溶かせる唯一の場所も「いま」しかありません。 (P86)
わたしたちは「未来に」自由になることは、できないのです。「いまに在る」ことが自由へのカギであり、わたしたちが自由になれるのは「いま」しかありません。 (P87)
「いま」に意識を集中させて、「いま、この瞬間」どんな問題があるか、挙げてみてください。
答えがありませんね。それでいいのです。「いま」に完全に意識を集中させていれば、問題を抱えることなどできません。処理すべき、受けいれるべき状況は、たしかにあるでしょう。でも、なぜ「状況」を「問題」に変えてしまうんでしょう? 生きること自体が十分チャレンジではないですか?
どうしてわたしたちは、なんでもかんでも問題にしてしまうんでしょう? その理由は、思考が無意識のうちに、問題を愛しているからです。なぜでしょう? それは思考に存在価値を与えるからです。これは人間にとってごくあたりまえのことであると同時に、「苦しみと不幸」の根源なのです。「問題を抱えている」ということ自体、意識が「人生の状況」にどっぷりとつかり、気づかないうちに、それが自分の一部になってしまっていることを意味します。人生で遭遇する「状況」に圧倒されるあまり、ほんとうの意味の「人生」を失ってしまっているのです。または、「いま」できる、ひとつのことに集中するかわりに、自分がこれからやるべき百のこと、という「重荷」を背負って、自分の心を押しつぶしているのです。
問題をこしらえるということは、すなわち、痛みをこしらえることです。わたしたちがとるべきステップは、とても簡単な決断をすることだけです。「どんなことが起きようと、わたしはもう二度と『状況』を『問題』に変えて、自分に痛みを与えない!」こう決断することです。とても簡単に聞こえますが、天地がひっくり返るくらいドラスティックな改革です。 (P92)
なんであれ、文句を言うということは、必ず「すでにそうであるもの」を拒否していることを意味します。それはひとつの例外もなく、ネガティブエネルギーを発しています。文句を言う時、あなたは自分を被害者にしたてあげています。わたしたちが言葉を発する時には、自身に備わるパワーを行使しているのです。ですから、文句を言うかわりに、なんらかの行動をとるか、はっきりと発言するか(それが必要であり、かつ可能であるなら)、もしくはその場を去るか、受けいれることで状況を変えるのです。これ以外の行動はすべて非生産的です。 (P113)
肝心なのは、意識して「いまに在る」こと。それだけです。これが、過去を溶かせるからです。これが変化を起こす唯一の触媒です。ですから、過去を知ろうと、答えを探してはなりません。そのかわり、できるかぎり「いまに在る」のです。過去は「いまに在る」人の中では、姿を消すほかに道がありません。わたしたちの「不在時」のみ、それは生存できるのです。 (P126)
「大いなる存在」は、「名前やかたちを超えた『わたし』は、永久に存在する」、という感覚で、認識できます。「大いなる存在」を認識し、その状態にしっかりとどまることが、「さとりをひらくこと」なのです。イエスの言った、「あなたを完全に自由にする真実」とは、このことです。 (P147)
言葉にしばられないでください。言葉はあくまでも、目的に到達するまでの手段なのです。言葉は抽象概念です。道しるべとなんら変わりなく、言葉はそれ自身を超えたものを指しているのです。「はちみつ」という言葉は、「はちみつ」そのものではありません。はちみつについて研究したり、論じたりすることはできても、肝心のはちみつを味わうことをしていなければ、それを、ほんとうに知ったことにはなりません。はちみつをいったん味わってしまえば、言葉には、こだわらなくなります。これとまったく同じ理屈で、神について生涯にわたり、思惟をめぐらしたり、語り合ったりしても、それで神を知っていることにはならないのです。そんなことをしても、神の実体を、一瞬でも、かいま見たことにはなりません。「道しるべ」や「偶像」へのこだわりで終わってしまいます。 (P148)
心が思考に占領されているかぎり、わたしたちは「大いなる存在」と断絶しています。大半の人が、持続的にこの状態にあるわけですが、この人たちは、意識をすべて思考活動につぎこんで、自分のからだを「留守」にしているのです。思考は暴走し、歯止めがきかなくなります。「自分の思考をとめられない」という症状は、大規模で蔓延している「病」であると言っても、言いすぎではないでしょう。これに「発病」すると、思考活動をよりどころにして、自分のアイデンティティをつくってしまいます。「大いなる存在」に根ざしていないアイデンティティはもろく、こわれやすいために、いつもなにかを求めるようになり、心の底に「恐れ」をこしらえます。そうなると、人生から一番大切なものが、欠落してしまいます。それは自分の内奥にある「大いなる存在」への認識です。
「大いなる存在」を認識できるようになるには、思考から意識を解放しなければなりません。これが、わたしたちの「魂の旅」の中で、もっとも大切な仕事のひとつです。無益で強迫的な思考活動に消費されている、ばく大な量の意識を解放するのです。意識を解放するのに効果的な方法は、思考活動を止め、インナーボディに意識を向けることです。インナーボディは、肉体に生命を与える、見えざるエネルギー場であり、「大いなる存在」が感じられる場所なのです。 (P151)
意識をすべて、思考と外界に消費しないことです。自分がおこなっていることには、集中すべきですが、それと同時に、できるかぎり自分のインナーボディを感じるのです。インナーボディにしっかりと根をおろしましょう。このようにこころがけることで、意識がどんな風に変化していくか、活動のクオリティに、どんな変化が見られるか、観察してみてください。
たとえどこにいても、待っている時には、インナーボディを感じる時間に充てましょう。そうすれば、車の渋滞や、順番待ちも、楽しいひと時に変わります。頭の中で、「過去」や「未来」を映し出すかわりに、インナーボディに根をおろして、さらに、「いま」に深くはいりこみましょう。
インナーボディへ意識を向けていると、生き方がガラリと一新します。「大いなる存在」につながっている時間も増え、人生に奥行が加わります。
インナーボディに根をおろしていると、「いまに在る」ことが容易になります。外界でどんな出来事が起ころうと、わたしたちはびくともしないのです。「からだに住まう」ことは、「いまに在る」ためには、欠かせません。 (P159)
「いまに在ること」は「まったき意識」になることです。思考から解放された意識になることです。インナーボディは、わたしたちと「目に見えない世界」をつなぐ接点です。「目に見えない世界」は、インナーボディのさらに奥にあります。「目に見えない世界」と意識の関係は、太陽と光の関係におきかえることができます。太陽が光を放っているように、意識は「目に見えない世界」という太陽から発せられている光のようなものとみなしていいでしょう。 (P163)
これからは、外界と思考だけに意識を注がないことを、人生の目標にしましょう。どんな時でも、いくらかは、自分の内面を意識しているのです。人と交流している時や自然に接している時には特にインナーボディを感じましょう。インナーボディの奥にある「沈黙」を感じてください。「目に見えない世界」の入口を、いつでも開けておくのです。一生をつうじて、「目に見えない世界」を意識していることも、決して不可能ではありません。外界でなにが起こっても、「目に見えない世界」を感じていれば、ゆるぎない心の平安、沈黙を得られます。こうすることで、「目に見えない世界」と「目に見える世界」をつなぐ、パイプ役をしているのです。「神」と「この世」をつなぐパイプ役とも言えます。これこそが「さとりをひらくこと」であり、「大いなる存在」とひとつになることなのです。 (P177)
思考は、時間が、さとりをひらくための条件だと言っているのですが、皮肉なことに、時間こそが、さとりをひらくうえで、「最大の障壁」なのです。
わたしたちは、自分がまだ完璧でないから、十分でないから、という理由で、いまこの時点の自分では、「そこ」に到達できないと考えるものです。しかし、真実は逆なんです。「いま」「ここ」だけが、わたしたちが「そこ」に到達できる唯一の地点なのです。自分はすでに「そこにいる」、と気づくことで、「そこに到達できる」のです。神を探し求める必要などない、と気づいた瞬間、わたしたちは神を見つけるのです。
結局、さとりをひらく唯一の方法などというものは、存在しません。どんな状況にいても、さとりをひらくことができますが、特定の状況が必要だということではないのです。しかし、さとりをひらける地点はただひとつです。それは「いま」です。「いま」からはなれた地点でさとりをひらくことなど、絶対にないのです。 (P198)
人間関係は、わたしたちを幸福にするのではなく、わたしたちを「目覚めさせる」ためにあるのだと知っていれば、さとりをひらくチャンスにできます。 (P213)
ペインボディは、一時的に内面に居座ってしまった、自由に流れず、滞留してしまった生命エネルギーです。ペインボディは、過去のなんらかの経験によるものであり、その人の中で生き続けている過去なのです。
つまり、ペインボディをアイデンティティにすることは、過去をアイデンティティにすることを意味します。「わたしは、被害者です」というアイデンティティは、「『いま』よりも、過去のほうがパワーを持っている」という信念に基づいています。ということは、他者や、他者のしたことが、現在の自分の、感情的痛みの原因であり、「ほんとうの自分」でいられないことに責任を負っていると信じていることになります。しかし、これは真実ではありません。「唯一のパワーは『いま、この瞬間』以外には存在しない」というのが、事実なのです。唯一のパワーは、「いまに在る」ことで生まれるパワーです。いったんこの事実をのみこめたら、現在の自分の心のあり方に責任があるのは、自分自身であり、ほかの誰でもないということがわかるはずです。さらに、過去は「いまのパワー」に歯が立たないということもわかるでしょう。 (P225)
かたちの面では、この世のものはみんな、不安定な性質と、滅びゆく運命を分かち合っています。しかし、「大いなる存在」の次元では、光り輝く永遠の生命を分かち合っているのです。これらが、憐れみのふたつの面なのです。 (P262)
「手放すこと」は、人生の流れに逆らうよりは、それに身を任せるという、シンプルでありながらとても奥の深い「知恵」なのです。人生の流れを実感できる場所は、「いま、この瞬間」しかありません。「手放すこと」は、「いま、この瞬間」を、なんの不安も抱かずに、無条件に受けいれることです。「すでにそうであるもの」に対する心の抵抗を、捨て去ることです。
心の抵抗とは、思考の決めつけやネガティブな感情によって、「すでにそうであるもの」を拒絶することです。物事が思いどおりにいかない時、「こうでなければならない」、という自分の要求や期待と、事実との間にギャップがある時、この傾向は特に顕著になります。これが「痛みをこしらえるギャップ」です。長年生きていれば、「思いどおりにならないこと」にちょくちょく出くわすことは、もうご存知でしょう。痛みや悲しみをこしらえたくなかったら、そういう時こそ、、「手放すこと」を実践するのです。「すでにそうであるもの」を受けいれたとたん、思考から解放され、「大いなる存在」につながることができます。物事に抵抗するのは、思考のさがなのです。 (P272)
思考は常に、既知のものにくっつこうとします。思考にとって、未知のものはコントロールがきかないため、危険なのです。これが、思考が「いま、この瞬間」を嫌がり、無視しようとする理由です。「いま」に在ると、思考の活動にすきまをつくるだけでなく、「過去 → 未来」という一本につながった時間軸にも、すきまをつくります。そのすきま、「無限の可能性を秘めた、クリアーな空間」以外からは、ほんとうの意味で新しく、創造的なものは、誕生できません。 (P301)
「すでにそうであるもの」を受けいれ、完全に「いま」に在れば、過去はパワーを失ってしまいます。過去など必要なくなるのです。「いまに在ること」、これがなによりも肝心です。 (P304)
ブッダの瞑想法: ヴィパッサナー瞑想の理論と実践
地橋 秀雄 / 春秋社 (2006-05-22) / 2,268円85 users
購入:  2013年12月27日 2,205円 所有
読了:  2015年05月03日 星4つ
もし名前を一切つけずに、たくさんの重要ファイルをパソコンに保存してしまったら、どのように呼び出せばよいのか途方にくれるでしょう。記憶データがいくら豊富でも、自在に読み出せる装置がなければ、知的活動を営むことはできないのです。優れた言語野が搭載され、豊かな言葉と文法の力を獲得したことによって、人類は、蓄えた情報を自在にコントロールする知性の基盤を確立し、記憶の想起も、未来の想像や予測も、考察も、哲学的思索も、その他諸々の精神活動を深化させていったと考えられます。 (P49)
サマーディの合一感覚に加えて、今の状態を超えようとする「超越」の要素が働かないかぎり、本物の「瞑想」とはいえません。二つのものが融合し主体と客体が合一する実感と、超越を志向する左脳の働きが協働し始めた時こそ、瞑想の起源であったと言ってよいでしょう。 (P53)
事実の世界と概念の世界を厳密に識別し、事実の世界の本質を洞察していくのがヴィパッサナー瞑想です。 (P65)
ヴィパッサナー瞑想の最重要ポイントは、「心をきれいにすること(清浄道)」と「事実をありのままに観ること(如実智見)」、そして「法と概念を明確に識別すること」です。これらはヴィパッサナー瞑想の原点であるばかりではなく、原始仏教の根本的な教理に直結しています。この三点が明らかになれば、ヴィパッサナー瞑想と原始仏教の本質を捉えることができるでしょう。 (P69)
ヴィパッサナー瞑想を正しく修行するためには、まずこの「法(実在・真実の状態)」と「概念(イメージ・思考・妄想)」とを明確に識別する仕事から始めます。 (P70)
ヴィパッサナー瞑想は、思考を止めて、事実をありのままに観ることができれば、一切のドゥッカ(苦)から解放されるだろう、という理論に基づいています。苦の原因は妄想にあり、その妄想は一瞬一瞬の事実に基づく「サティ」の技術によって止められます。思考が始まった瞬間、「妄想」「イメージ」とラベリング(言語認識)されると、連鎖しようとする思考の流れが断たれてしまうのです。こうして思考が止まれば、心に入った情報が編集されたり歪められたりすることなく、ありのままに認知されるでしょう。ありのままに観られた事象は夢でも妄想でもない「真実の状態」なので「ダンマ」と呼ばれます。 (P72)
私たちの見るもの、聞くもの、感じるもの、知覚するものは常に誤解と錯覚だらけです。先入観や思い込み、早とちり、思考の編集、エゴの検閲など、諸々の心のフィルターがかかって情報が歪むのです。しかるに、ダイレクトに、直接知覚されたものは情報に歪みがありません。「法」とは情報に歪みがないことです。そしてその「法(ダンマ)」として存在するもの」の本質を見極めていくことがヴィパッサナー瞑想の仕事なのです。真実が洞察されると、間違ったものの見方で生きていた「無明」に愕然として、苦の原因を手放すことができるだろうということです。知識を身につけるのも知恵ですが、仏教では、真実の姿を目の当たりにする意識状態こそが苦を乗り越える智慧であり、「如実智見」と呼ばれます。 (P73)
在家の私たちが直面している多くの苦しみを解放するためには、何よりもまずサティの瞑想が修行されるべきでしょう。マハーシ・システム(ミャンマーのマハーシ長老が世界中に広めたシステム)では、まずサティの瞑想から着手して、並行してサマーディの力を養っていく指導方法です。 (P100)
「サマーディ」とは極度の集中です。集中が極まって対象に没入し、主体と客体の未分化状態にまで達した集中力と理解してよいでしょう。心を一つの対象に釘づけにし、その主体と客体の合一状態を目指す瞑想が「サマタ(止)」です。サマーディの完成はサマタ瞑想のゴールでもあります。例えば、「永遠なもの」「無限なもの」「全知全能なもの」など、至高概念や究極のイメージと合一してしまえば、それ以上はありえないからです。サマーディに入定している間は、「超越」の感覚が内的に体験されます。 (P101)
一方、「ヴィパッサナー(観)」では、サマーディは必要条件ですが、到達点ではありません。決定的な違いは、「観察」のファクターです。概念への集中でなく、「法(ダンマ)」として現れてくる現実の事象を観察していくのです。極度の集中力でその観察がなされていく時に、ヴィパッサナー瞑想のサマーディが完成します。前章で定義した「法」を対象にしたものがヴィパッサナー瞑想であり、「概念」を対象にしたもんのがサマタ瞑想と考えてよいでしょう。 (P101)
いま経験している出来事を一瞬一瞬気づいて確認するのがヴィパッサナー瞑想です。気づきがあればサティがあるのですが、気づきを言語化して認識確定をする仕事を「ラベリング」と言います。ラベルをペタペタ貼っていく要領で、現在の瞬間の出来事を「言葉確認」していくのです。 (P127)
「現象が先、確認(ラベリング)が後」という原則を覚えてください。たとえ千分の一秒であれ、経験する心と確認する心は時系列であって、同一の瞬間に生起することはありません。感じながら同時にラベリングをしているというのは偽りの印象です。センセーションを感じることにすべての注意を没入させる。感じられ、認識されたものを確認する。この連鎖が良い修行です。足の動きにダブらせて機械的にラベリングをしていると、自己暗示をかけているようにトロリとしてきたり、別のことを妄想しながら「右」「左」・・・・・とうわの空のラベリングになっていたりします。しっかりセンセーションを感じることが、ダンマを捉えることにつながります。 (P131)
ヴィパッサナー瞑想は、他人ではなく自分の心と体の現象に気づき、その変化過程を観察していくものです。理想形を追求する発送ではなく、ありのままの現状の確認です。 (P132)
中心対象以外でも、心がはっきり経験した優勢な現象にはサティを入れるのが原則です。ヴィパッサナーは現在の瞬間に気づいていく瞑想です。今この瞬間に、自分の心と体に何が起きているか。常に自覚的に、現在の瞬間を間断なく捉え続けることが、妄想、ひいては煩悩を離れていく修行になるのです。中心対象に集中することを至上の義務のように考える必要はありません。集中のよい時もあれば、散漫な時もあります。どちらも必然の力が働いた結果であり、散漫な時には、中心外の音や妄想に入れるサティが多くなるだけの話です。ヴィパッサナー瞑想では、中心対象だけに集中することよりも現在の瞬間を捉え続けること、つまり気づきの持続のほうが大事です。 (P138)
ラベリングは認識を確定するための装置です。簡潔な短い言葉がよいのです。実感に90パーセント、ラベリングに10パーセントの法則を思い出してください。 (P169)
今、自分の心と体に何が起きているのか。経験している事象を正確に、歪めずに、あるがままに観て、その本質まで洞察するのがヴィパッサナー瞑想の仕事です。そのためには、左脳の言葉の仕事をできるだけ少なくして、経験すること、実感すること、観察することそのものに専念すべきなのです。腕が動く一瞬一瞬、そのセンセーションがどのように変化し、推移していくのかをできるだけ明晰に、よく観察し、最後のほうで「動いた」「下ろした」と一回ラベリングするだけでよいのです。 (P169)
自己を客観視する方向からサティを入れるのが、正しいヴィパッサナー瞑想です。 (P175)
心随観は「心の便所掃除」なのだ、と覚悟しておきましょう。ヴィパッサナー瞑想は、汚れた心をきれいにすることによって、苦から解放されていくシステムなのです。 (P196)
原始仏教では、サティの訓練と並行して必ず「慈悲の瞑想」を行います。ヴィパッサナー瞑想の真の目的は、心をきれいにしていくことです。サティの訓練で妄想を止め、あるがままの自分を正確に捉えることができても、最終的に私たちの心の反応パターンが変わらなければ、今までと同じような貪・瞋・痴の振る舞いで反応してしまうでしょう。慈悲の瞑想は、この世で最も崇高な「慈悲」の心を私たちの反応系の心に組み込んでいく訓練です。 (P212)
このヴィパッサナー瞑想という基本精神で、自分の人生全体を生きていくことができれば、たとえ次々とドゥッカ(苦)の現象に見舞われることがあろうとも、最速の乗り超え方で苦境を脱することができるでしょう。そのように、ドゥッカ(苦)から解放されることを願って、提示されたのがヴィパッサナー瞑想です。 (P263)
心をきれいにしてくれる力のある法友に会う、瞑想会など、そうした目的の場所に行く、ダンマ系の本やCDなどを読んだり、聞いたりして、心を転換させてくれる情報に接する、等々の対策を講じておくとよいでしょう。最も強力なのは、法友です。自分よりも優れた、半ば師であるような友、
師友、ダンマフレンドです。心のきれいな徳のある人にまみえることは、強力にこちらの心が聖なる方向に引き上げられます。「自分と同じか、自分よりも勝れた友に親しみ近づくべきである。しかしそのような法友が得られなければ、犀の角のように独り歩め」というのがブッダの教えです。心を清らかに保つためには、悪い者と群れるくらいなら孤独を選べ、という厳しいアドバイスです。そうした真の法友に出会えるように、心から強く祈るとよいでしょう。不思議に、そうなっていきます。 (P264)

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